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2016年5月14日(土)田中青坪(せいひょう)

今年3月〜5月、青坪の初めての大規模な回顧展がアーツ前橋で開催される。明るく清新な画風で、院展で活躍した。長く荻窪に画室を構え、温厚な人柄を慕われて多くの画人と交流した。師は小茂田青樹。

講師 辻瑞生

 

アーツ前橋で「田中青坪ー永遠のモダンボーイ」展が開かれています。

産経ニュース2016.4.10に「田中青坪展」評が掲載されています。

辻瑞生(つじみずき)さんのプロフィール

1978年群馬県桐生市生まれ。お茶の水女子大学生活科学部人間生活学科生活文化学講座卒業。群馬県立女子大学大学院修了。新聞社勤務を経て美術館学芸員となる。2010年からアーツ前橋開館準備に携わり、現在にいたる。主な展覧会は「藍田正雄の江戸小紋」展(2006年高崎市タワー美術館)、「服の記憶―私の服は誰のもの?」展(2013年アーツ前橋)。「田中青坪―永遠のモダンボーイ」(2016年アーツ前橋)。専門は日本美術。

辻瑞生さんの話

(辻さんは30点近い作品を映写しながら、それぞれの作品について丁寧な解説をしてくださいました。そのうちの3点を紹介します)

 「花による少女」(昭和5年)

初期の代表作と言われている。スイトピーの花垣を背に一人の少女が椅子に座っている。髪はきれいに束ねられて、凛とした目、ほのかに赤みを帯びた頬や指先から肌の透明感を際立たせ、清楚で可憐な雰囲気が感じられる。レース模様も細かく描かれている。帽子につけられた花や足下の靴の模様なども大正期のロマンティシズムを感じさせる少女趣味であるが、嫌み、甘ったるさがない。少女の着ている白いドレスの質感を見ると、日本画の画材でなければ出来ない表現となっている。岩絵具などを細かく砕いた粉を水とにかわで溶くのだが、薄い上澄みの部分を少しずつ塗り重ねていくことでレースのふんわりとした質感や薄さをとてもよく出している。この少女のモデルはパトロンであった細川護立の娘(長女)であったと言われている。院展を見に来ていた護立を横山大観に紹介されたことがきっかけで細川家の誕生日の仮装パーティーに呼ばれ、また夏は軽井沢の別荘、冬は赤倉高原の別荘にスキーに招かれるようになり、制作した作品も収集していただいていた。この作品は細川家旧蔵品で現在は熊本県立美術館所蔵となっている。この作品の他にも現在行方不明となっている『花と少女』という作品があるが、(絵はがきの画像を映写)これには護立の他の娘たちが描かれている。

 「孔雀」(昭和7年)

田中青坪は奥村土牛、小倉遊亀とともに昭和7年6月、日本美術院同人に推挙された。わずか29歳の若さで土牛とは14歳、遊亀とは8歳離れていた。院展の最年少同人となった青坪が最初に発表したのがこの作品である。従来の形式からは離れた新しい花鳥画に挑戦している。例えば縦長の画面で中央の孔雀の止まり木で画面を横に切る構図はあまり日本画では見られない。また手前の植物の鮮やかな色使いも斬新で、強いインパクトを与えたようだ。美術雑誌の作品評でも「新同人の意気を十分に見せている」と高く評価された。こうした青坪の同人推挙を誰よりも喜んだのは師の小茂田青樹であった。この作品を描く半年ほど前に青樹は結核を患い、逗子で療養中の青樹は病床でもとても青坪のことを気遣っていたと言われる。青坪も頻繁に見舞いに訪れ、臨終にも立ち会った。(青樹没後に雅号を青坪と名乗るようになった。それまでは本名の田中文雄を名乗っていた。)

 「浅間高原(五)」(昭和55年)

昭和49年から浅間山のシリーズに取り組んだ。芸大退官後、軽井沢の別荘に五月頃から紅葉の終わる秋口まで、折々に出かけては克明な写生を繰り返した。この作品の季節は冬、空気がすかっとして、雪が残っている。細密な樹木の表現、枯れ木の枝振りを細かく描く。「数年来の連作、田中青坪氏の『浅間高原』はますます冴えた自然観照の目を示して、明快に豊かな空間を表示している。雲の巧みさに毎年感心していたが、今年は特に分厚い風景を見せてもらった」と評された。

Fさん(田中青坪の長女)の話

父の田中青坪は昭和8年頃結婚してここ東荻町に来た。その前は中道寺の近くに住んでいたと聞いた。父は芸大の教授をしていたので学生や画家仲間が家に頻繁に出入りしていた。学生では平山郁夫さんとまだ結婚する前のその奥さまが通っておられた。数年前に平山さんがなくなられた時お葬式にうかがったら、奥様が「田中青坪さんは私たちの原点」とおっしゃってくださった。父の画室が出来た時には横山大観が見えられて、その時お祝いにくださった舶来のブランディーを父は長く大事にしていた。横山先生から紹介されて永青文庫の細川公爵と知り合い、軽井沢の別荘に招待された。浅間高原シリーズの最初のころは細川家別荘で描いたものだ。梅原龍三郎さんとそこで知り合い、頼まれて日本画の画材である緑青の使い方を教えたこともあった。梅原さんとは芸大の同僚でもあり、よく銀座の求龍堂で洋画の久保守さんや中川一政さんと集まっては将棋を指したり、同じテイラーで背広を仕立てたりしていた。荻窪駅北口の橋本明治さんが白いスピッツを連れていらしていた。森田沙伊さんは井の頭公園の方に住んでおられたが、よく自転車で見えては父と骨董談義に話が弾んでいた。近くに田河水泡さんが住んでいらして、よく父と縁側で話をしていた。父と気があったのだろう。子供好きで私をとてもかわいがってくれ荻窪駅前にあった喫茶店でケーキをごちそうしてくれたこともあった。一度アトリエで田河さんがのらくろを描くのを見ていたことがあった。書き上げてから「こりゃー駄目だ、あげる」なんていうのをもらって今も大事にしている。やはり近くの恩地孝四郎さんに家に遊びにこいと言われて上がったことがある。バレンを触らせてくれたり、ピアノが上手で弾いてくれた。いつもクラシックの同じ曲ばかりを自分なりにアレンジして弾いていた。神津港人さんも近くに住んでおられて、道でお会いして挨拶した。近くに荻外荘があり近衛文麿さんが自決した時、父が呼ばれてデスマスクをスケッチした。おそらく細川公爵の関係で呼ばれたのだろう。そのスケッチは父の手元にあったが、惜しいことに父の死後母が処分してしまった。角川源義さんとは将棋仲間でお互いいい勝負をしていたようだ。一緒に原田八段のところに通い名誉2段の段位をもらって喜んでいた。阿佐ヶ谷の川崎小虎さんも、一時期毎日のようにうちにきて父と将棋を楽しんでいた。近藤富枝さんと角圭子さがご一緒にうちの庭の一輪草を見にいらしたことがあった。角圭子さんの父上は石山太柏という日本画家で、その奥様は茶道の先生をしていた。

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