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2017年2月11日(土)前川千帆(まえかわせんぱん)

大正、昭和の温泉風景、都会風景、労働者、女性などを、軽妙に、そして深いヒューマニティをもって描いた。創作版画協会展に出品した近代版画の創始者のひとり。荻窪に1950年頃から住んだ。

 

講師

森山悦乃

公益財団法人平木浮世絵財団

主任学芸員

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

森山悦乃さんの話

 

 浮世絵は江戸時代庶民の大衆芸術だったが、明治時代に入り衰退した。その後、近代版画は「新版画」と「創作版画」の二つの流れとなって発展した。「新版画」は浮世絵の伝統的技法を受け継いだもので、「創作版画」は一人の作者が絵を描き、彫り、刷る表現技法である。

 前川千帆は創作版画のジャンルで活躍した。昭和52年、リッカー美術館が開催した回顧展がこれまで国内唯一の展覧会だ。

 千帆は京都に生まれ、絵を志して上京し千駄ヶ谷に住んだ。戦争中は岡山に疎開し、戦後杉並区東荻町に戻って晩年の10年間を過ごした。

 千帆は初め漫画家として名を知られた。漫画と言ってもストーリーが展開する現代の漫画とは違って、文章に添えられたユーモアあふれる挿絵であった。大正8年には早くも単行本を出版している。昭和5年から8年にかけて読売新聞で「あわてものの熊さん」を連載し、これが人気を博して有名になった。映画化もされた。

 初期の版画作品では《工場地帯2》がある。黒1色で、彫刻刀の彫りあとの残る力強い作品だ。《野外小品》人気がありシリーズ化された。《苦力(クーリー)》満州国に出稼ぎに来た貧しい中国人を描いた。千帆の人物画の代表作だ。千帆は全国を旅して働く人々をテーマに農婦、木こりなどを描いた。

 千帆の作品を目にする機会が少ないのは、創作版画の宿命だ。浮世絵は版元がいて大量制作・販売する仕組みがあったが、創作版画は刷る枚数が5枚10枚と少ない。さらに戦後、海外の美術愛好家が創作版画を収集し大量に海外に流出した。後にシカゴ、ボストン、大英博物館のコレクションとなった。恩地孝四郎、平塚運一、前川千帆が三大版画家と言われた。

 《ラグビー》昭和7年ロスアンゼルスオリンピックに出品した。《ジャンプ》昭和11年ベルリンオリンピックに出した。《榛名秋色》旅館の2階から女性3人が紅葉を眺めている。逆光を色数なく表現し、小津映画の一場面のような落ち着いた雰囲気がある。《唐松の若葉に包まれた離山》《避暑期の旧軽井沢》《甲板》陰影を付けず、確かなデッサン力で遠近感を出している。

 温泉は千帆の生涯のテーマだった。《朝の浴場》昭和26年。誰もいない朝の浴場だが、朝日が射し込み湯音も聞こえそうだ。その場の空気感までが感じられる。全国の温泉を巡って制作した『浴泉譜』は初め手刷りで100部ほど出された。好評で続巻が作られ、戦後印刷本となって普及した。このシリーズの最終取材地は熱海温泉だったが、解説文中で自らのことを「作者酒杯に縁なく、またすこぶる潔癖で」と述べているがこの言葉通りまじめで控えめな人柄の人だったようである。

 

 

 

 

近所のHさんの話

前川千帆さんは確かに近くに住んでおられた。物静かな方で、直接お話をしたことはない。私も小さかったし、挨拶をする程度だった。新聞に漫画を連載している有名な漫画家だと聞いていた。版画をやっている方とは知らなかった。人が頻繁に出入りするということはなく、ひっそりと暮らしておられた。いつか、俳優の池部良が尋ねてきたと聞いたことがある。何年かここで暮らして、その後どこかへ引っ越していかれた。その時、お世話になったお礼にと画文集をいただいた。家のどこかにあるはずだ。暮らしていた家はその後別の方が住んでいたが、今はない。

前川さんのお宅の前に、市川さんという方が住んでおられたが、その方の家はとてもすてきな洋館だった。玄関の横に大きなヒマラヤ杉が立っていた。また、近くには大田黒元雄さんも住んでいた。今は立派に整備されているが、以前、大田黒さんがまだお元気でNHKの「話の泉」に出ている頃から家はずいぶん荒れていた。垣根はすきまだらけで、夜、門から家までの外灯もない真っ暗な道を大田黒さんが一人でぽつんと歩いているのを見かけたことがある。(2016年5月)

「日本アニメのはじまりと前川千帆」(要旨)

2018年6月9日 レポート:勝田竜也

 

日本の国産アニメがはじめて公開されたのは1917年。昨年2017年は国産アニメ100周年を迎え、各地で日本のアニメーションに関する様々なイベントや記念展示が行われた。これまで国産アニメ創始者として、幸内純一・下川凹天・北山清太郎の3人の名が挙げられてきたが、近年研究が進み、前川千帆が幸内純一の元でアニメ制作に関わっていたことが明らかになり、国産アニメ100周年記念展示の一つ「にっぽんアニメーションことはじめ」では、前川千帆を加えた4人が国産アニメのパイオニアとして紹介されることとなった。

美術雑誌「東陽」1936年10月号に記載の-現代漫画映画に就いて-の中で、幸内純一は当時を振り返り「~その次が私で当時一流洋画館たる帝國館で封切した、『なまくら刀』と題する髷物で原作デザインともに前川千帆君との合作であったから前二者よりも優秀なる効果を収め得た。その後我々は二三本制作したのであるが小林興業部の没落で浪人し、天活の下川君も面倒臭くなって擲出して仕舞い後に残った日活の北山君が独舞台で幅を利かした。~」と記しており、国産アニメ草創期に幸内純一は前川千帆と共に幾本かのアニメ制作をしていたことがうかがい知れる。1917年は国産アニメはじまりの年であるにも関わらず18本もの映画が公開された。しかし、当時のフィルムは現在ほとんど残っておらず、いまのところ一通りの形で現存しているのは、幸内純一と前川千帆制作による前記の「なまくら刀」のみである。

「なまくら刀」は4分程の作品で、刀を買った侍が試し切りをしたくなり、道端の通行人を狙うが逆にコテンパンにやられる、というコメディである。前半と後半で画風が変わるのが特徴で、前半は漫画絵のキャラクターが動き回るのだが、後半はそれが影絵風にガラッと画風が変わる。この影絵の手法は当時好評であったようだ。映画雑誌「活動之世界」1917年9月号の映画評において「日本で線画が出来ることになったのは愉快である。ことに小林商会の『ためし斬』は出色の出来栄えで、天活日活のものに比して一段の手際である。ことに題材の見付け方が面白い。~言うまでもなく、線画の妙技は線にある。『ためし斬』は、ほかは無難であったが、人物の表情がいかにも悪感であった。凸坊新画帖は、いかなる場面にも表情は凸坊式愛嬌がなくてはならぬ。~『ためし斬』の後半に、影絵を応用したのは仲々の思いつきであった」と記載されている。

(ちなみに『ためし斬』とはもちろん『なまくら刀』のことである。そして「線画」とはアニメーションのことで、描かれた線が動くので線画と呼ばれていたようである。「凸坊新画帖」も同じくアニメーションのことで、こちらは海外から輸入され公開されたごく初期のアニメーションに、おでこの大きな子供つまり凸坊のキャラクターがいたために、アニメーション一般を「凸坊新画帖」と呼ぶようになったようだ。当時はまだアニメーションという言葉は使われていなかった。)

 

この後半の影絵の手法には、あくまで推測ではあるが、「原作デザインともに前川千帆君との合作であった『なまくら刀』」における前川千帆の影響力の強さが現れているのではないだろうか。というのも、「なまくら刀」が公開された1917年には雑誌「ホトトギス」9月号に、前川千帆による挿絵「秋晴れ」と「喧嘩」の2点が掲載されていて、そのどちらもが影絵の手法をとっているからである。次年にも同誌6月号に「飛行機」と題したやはり影絵手法の挿絵を掲載している。さらに興味深いのは、「なまくら刀」の公開情報が載った「活動之世界」誌1917年9月号に記載されたアメリカの新作アニメーションを紹介した記事である。「影絵の話」と題されたこの記事は、ギルバートとブレイによって制作された実験的な影絵のアニメーション「Inbad the Sailor」の紹介で、その制作方法も簡略ながら解説されている。この映画のスチル写真を見ると、先のホトトギス誌に掲載された前川千帆の挿絵の構図や雰囲気と共通した印象を受ける。この映画の日本公開は1917年6月25日であり「なまくら刀」は6月30日。同じ影絵のアニメーション制作に携わったものとして、この海外の最新作を前川千帆は見逃さないのではないか。この映画にインスピレーションを得て、影絵の手法を挿絵のモチーフとしたと考えても不自然ではない。前川千帆はもともと影絵というものに強く惹かれていたのではないだろうか。だから、なまくら刀制作においても、影絵の手法を使うアイディアを幸内純一に持ちかけたと想像してみるのもあながち間違いではないものと考える。また、実像をフォルムへと抽象化する影絵という手法は版画の手法にも共通するところがあり、後に版画家として名を成す前川千帆らしい着眼点と言うこともできるのではないか。

前川千帆が本格的に版画家として活動を始めたのは、1919年第1回日本創作版画協会展に「病める猫」を出品してからである。雑誌や新聞の漫画家、挿絵画家として活躍していた頃、まだ版画家前川千帆ではない頃の版画家的視点が、「なまくら刀」というアニメーション作品や、いまだ見つからない幸内純一と合作した幾つかの作品に隠れているとすれば大変興味深いところである。

 

 

※参考資料

 ・国立映画アーカイブHP

 ・東陽 1936-10

 ・活動之世界1917-09

 ・ホトトギス 1917 第21巻第1号

 ・ホトトギス 1918 第21巻第9号

 ・津堅信之著 日本初のアニメーション作家北山清太郎 臨川書店

前川千帆 朝の浴場 1951年

図1.png
なまくら刀後半.png
前川千帆.png
前川千帆喧嘩.png

​「なまくら刀」(前半)

​「なまくら刀」(後半)

​「秋晴れ」

​「喧嘩」

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