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2016年11月12日(土) 津田青楓(つだせいふう)

代表作「新議会」「疾風怒濤」「犠牲者」は荻窪のアトリエで描かれた。「二科会」創設に関わり、後に良寛に心酔し、日本画と書に没頭した。漱石とも交流した津田青楓の人間的魅力と作品の変遷を解説する。

津田青楓の生涯

 

 講師 猪股寿美子さん (笛吹市青楓美術館学芸員 2004年から青楓美術館の管理に携わる。現在、「二十世紀最後の文人画家 津田青楓の生涯と作品」を機関誌『フットステップ』に連載中)

 

 

明治13年 京都に生まれる。本名は亀治郎。兄は華道会の巨匠といわれ    た西川一草亭。

明治24年 母方の津田姓を名乗る。奉公先で日本画と書を習う。『宮古    錦』という図案集を作り兄に青楓の号をつけてもらう。以来津田青楓    と号する。

明治30年 日本画家谷口香嶠塾に入門。同時に洋画のデッサンを習うた    め浅井忠のいる関西美術院に入る。

明治33年 20歳で兵役につく。看護兵を勤め3年で除隊するが、日露戦    争で再び召集を受け、旅順を巡る激戦に参加し、戦争の惨状を知る。

明治39年 26歳で除隊。香嶠塾、関西美術院に復帰。翌年山脇敏子と結    婚。農商務省から官費留学生として、安井曾太郎と共に渡仏する。

明治43年 帰国。文展に初入選。単身上京し漱石山房を訪ね親しく交流    した。漱石に日本画の手ほどきをし、漱石をはじめ多くの作家の本の    装幀を手掛ける。

大正2年 青楓図案社設立。工芸デザインでも活躍。

大正3年 二科会の結成に中心的役割を果たす。会の名称も青楓の発        案。

大正12年 荻窪に450坪の土地を求め移住を予定していたが、妻の渡仏    に伴い立ち消えとなった。関東大震災に遭い京都に移る。

大正13年 河上肇と出会う。

大正14年 南禅寺近くの画家の集まりが津田洋画塾となる。

昭和5年 荻窪に津田洋画塾を移す。《ブルジョワ議会と民衆の生活》     《疾風怒濤》などを制作。《犠牲者》制作中警察に連行される。起訴保留で釈放後、洋画の筆を折って日本画に専念することを発表。以降、良寛の世界に傾倒して行く。

戦中 茨城県に疎開。

戦後 杉並(高井戸)に戻る。

昭和47年 小池唯則と出会う。小池が故郷笛吹市一宮町に「青楓美術館」設立。その際作品多数寄贈。

昭和53年 8月31日未明、床の中で大往生。享年98歳。

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