連続美術講座 画家たちの荻窪
2016年6月11日(土) 小茂田青樹(おもだせいじゅ)
1924年結婚して荻窪に居を構えた青樹は新たな挑戦を始める。画面は洗練され題材は多岐に及ぶ。これらはやがて傑作「虫魚画巻」に結実する。小茂田青樹研究の第1人者が青樹の「荻窪時代」を語る。
講師
伊豆井秀一(いずい・ひでかず)
1949年埼玉県生まれ。早稲田大学卒業。埼玉県立博物館、埼玉県立近代美術館、埼玉県教育局生涯学習課を経、埼玉県立近代美術館主席学芸主幹。2015年同館を退職。明治美術学会会員。地域美産研究会副代表。著書『小茂田青樹』、共著『昭和の美術』、『昭和の文化遺産』etc。
伊豆井秀一さんの話(要旨)
(会場に)この中で小茂田青樹の名をご存知の方、挙手をお願いします。(約半分の挙手)私が最初に埼玉近代美術館で「小茂田青樹展」を手がけた1984年の頃は小茂田青樹の名を知る人はまだまだわずかで、作品の所蔵先も不明でそれを探すことから始めた。その後、東武美術館、川越市美術館で展覧会が催され次第にその名が知られるようになったのかと思う。
小茂田青樹は同世代の速水御舟と並べて論ぜられることが多い。御舟には熱狂的なファンがいるように青樹にもいる。御舟が理知的で天才的であるのに対し、青樹はより叙情的で豊かな詩情性にあふれている。当時の日本画家たちは日本の伝統的な絵画と西洋の写実性をいかに融合させるかに取り組んでいた。彼らの属した日本美術院では、岡倉天心が琳派(俵屋宗達・尾形光琳らの装飾的な絵画、工芸の流派)の復活を唱えた。前田青邨、小林古径らから新しい次の世代である彼らに受け継がれたのは、琳派の伝統をどう近代日本画に生かすかというテーマであった。
小茂田青樹の叙情性を示す言葉がある。「久しぶりにて日記帳にペンを持って向かう。窓よりの眺め、水々しい新緑、而も雨後の夕、地にサツキ、赤白に咲き、蛙なき、尾長鳥なき、とび、麦青し。5月はうれし、病床を慰む。」(昭和7年の日記)こうした豊かな感性は生まれ育った歴史とともに川越の自然から学び取ったものだと思う。
小茂田青樹の画業は 1 画塾入門から再興院展へ 2 狭山時代 3 松江時代 4 川越時代 5 荻窪時代(1924〜1932) と分けられる。
荻窪時代では院展同人となり生活は安泰となるが画商が取り巻き弟子たちも集まり、純粋に絵に専心することが難しくなった。前の時代に比べるとトーンダウンしたと言われる。荻窪では新しい展開をもとめたが、松江時代、川越時代と続く大きな命題である「伝統と近代の融和」という姿勢に変わりはない。荻窪では風景、静物から次第に動物、生き物に画題が移っていく。弟子の田中青坪は青樹が晩年「木曽馬を描きたい」と言っていたと回想している。
(スライドの上映。荻窪時代の作品を数多く紹介)「緑雨」、「樹上猿」などのこの構図はどうだろうか。「秋草に少女」少女を外すと秋草の描き方は琳派そのものだ。「睡鴨飛鴨」、波の形は琳派だが、この作品は横山大観に激賞された。速水御舟は磁器、小茂田青樹は陶器に例えられると思うが、青樹作品には何とも言えないぬくもりがある。
(会場からの質問「なぜ小茂田青樹は荻窪に来たのか」に答えて)荻窪の自然に惹かれたのだと思う。 (以上)

花曇りの丘 昭和2年

田園小景 其二 昭和2年

大正13年、青樹は荻窪(下荻窪)に自宅を構えた。昭和4年門下生を集め「杉立社(さんりつしゃ)」を組織し自宅を開放、自らと家族は田端の借家へ移り、昭和7年逗子に転地療養するまで住んだ。
小茂田青樹が見た荻窪
昭和2年、青樹は「田園小景 其二」を描いた。残っているのはモノクロ写真なので季節は不明だが恐らく初夏の田園風景である。涼しい風が樹間を吹き抜けていく。その清涼感に加えてモダンで理知的な印象がある。二本の赤松の配置や遠近法を使った田の畦の線などが斬新だ。これはどこを描いた作品だろう。
青樹は昭和3年に三越で個展を開き、同時に『青樹画册第一集』を発行した。この作品はこの図録に載せられている。その「自序」で青樹は「居は人を語るかといいます。私の画室から生まれた作が私の朝夕親しみつつある西郊武蔵野の景物四季の興に多くその作画の因を作している事は恐らく自然の成り行きであろうと思います」と述べている。「朝夕親しみつつある武蔵野」は荻窪と考えていいだろう。
伊豆井さんの話にあったように青樹はこれまで各地に住まいながらその土地の風景と全力で向かい合って作品を作ってきた。狭山では「麦踏み」(T8)を描き、遠く松江では傑作「出雲江角港」(T10)を完成させ、川越では「村道」(T12)を残した。だから荻窪に来た目的は、荻窪の風景を描くため、と言ってもそれほど無理はないと思う。青樹が荻窪に来たのは大正13年、震災の翌年だがその頃の荻窪にはまだ郊外化の波は押し寄せておらず善福寺川流域に緑豊かな田んぼが存在していた。それから4年間、荻窪の風景に全力で取り組んである程度の目的の達成を見て個展を開催した。
青樹はどこからこの絵を描いたのだろう。地形図を描いてみると、自宅からほど近い西田田んぼが題材になったと考えられる。弟子の田中青坪は伊豆井さんのインタビューで「この「田園小景」とか「花曇りの日の丘」なんかも先生の画室から見た風景ですね。画室の前が麦畑で、その向こうが田んぼなんです」と答えている。(埼玉県立美術館「小茂田青樹とその周辺展」より なおこのインタビューは荻窪時代の青樹を知る上で貴重な資料である)(この「画室」は田端の借家をさしている)絵の中では田んぼの向こうに樹木に覆われた丘が横たわるが、実際、善福寺川をはさんだ対岸にある中道寺あたりは戦前は薄暗い森に囲まれており、今の松渓中学校あたりには松山と呼ばれる雑木林が広がっていたという。青樹は田んぼと対岸の緑を見渡すことの出来る小高い場所から見えた景色を描いたのだろう。そしてこの絵に描かれた風景とほぼ同じ風景を約10年後の昭和12年に近衛文麿が荻外荘から、さらにその18年後の昭和30年に角川源義が幻戯山房から見ることになったと考えられる。
なお、この作品は近年開かれた展覧会図録には掲載されていないから所蔵先不明と思われる。もうこの世に存在しないかもしれない。