連続美術講座 画家たちの荻窪
2016年8月13日(土) 棟方志功
1951年、鈴木信太郎からアトリエを譲り受けて荻窪に居を移す。制作意欲はいよいよ盛んで「華狩頌」など、晩年の傑作を次々と生み出す。ともに暮らした孫が語る祖父の思い出。
講師
石井頼子
棟方志功の孫・学芸員
略歴
1956年、版画家棟方志功の長女・けようの長女として東京都に生まれる。棟方と生活を共にし、その制作風景に接しながら育つ。慶應義塾大学文学部を卒業後、2011年の閉館まで棟方板画美術館に学芸員として勤務。展覧会監修や執筆活動、講演などを通じ、知られざる棟方の紹介に努めている。『棟方志功の絵手紙』編(2006年二玄社)『棟方志功の眼』(2014年里文出版)『言霊の人 棟方志功』(2015年里文出版)『もっと知りたい 棟方志功』(2016東京美術)。日本民藝館運営委員。
石井頼子さんの話(要旨)(配布資料4枚)
私は子どもの頃は父をパパと呼び、祖父(棟方志功)を「荻窪のパパ」と呼んでいた。小学校2年から中学校2年までは荻窪の祖父の家で一緒に暮らした。棟方は画室に人が入るのを嫌ったが、私が幼稚園の頃までは画室の隅でじっと見ているのを許してくれた。外での様子とは違って、棟方は家では暇さえあれば制作に打ち込んでいた。うなり声とシャリシャリと木を彫る快い音だけが聞こえていた。
棟方の仕事は宗教的題材が多いが、仏教に限らず日本神話やキリスト像なども描いた。また油絵、手描きの墨絵、書、装幀、挿し絵 包装紙のデザイン、随想、自伝などを手がけた。
便宜的に住んだ場所によって青森時代、中野(大和町)時代、福光時代、荻窪時代、鎌倉時代と分けてお話しします。
荻窪時代(以下要点のみ)
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山口泉氏(いずみ工芸店)の呼びかけで奉加帳面がまわされた
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鈴木信太郎の越した後のアトリエに棟方が来た
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荻窪の家の見取り図(配布資料)昭和31年「裏の家」を増築した
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長い路地の奥に石の門があり、ポストに「有り難く感謝」と書いてあった。手紙が好きでしょっちゅう亀屋酒店横のポストに通った
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玄関の右に応接間があり、棚には河井寛次郎、浜田庄司の壷が並べてあった
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始めは座って食べた食堂 お風呂のタイルはバーナードリーチ
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荻窪の家で撮った版画の制作手順の連続写真
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廊下の突き当たりが画室 東側から光が入る
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「釈迦十大弟子」の版木を救ったイギリス製の椅子が置いてある
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彫り始めると実に速い 手の位置を変えず版木をくるくる回す 李朝の机の表面を平に削る バレンは虎屋の羊羹の竹皮
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雨の日に一気に刷る 家の中はおしめを干したような状態
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昭和30年の実験茶会の様子 便所観音を描いた
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谷崎潤一郎の『鍵』の挿し絵を彫った
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大首絵(おおくびえ)で版画を庶民に広げた
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カメラに夢中で白山神社で撮影したときの様子
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昭和41年鎌倉にアトリエが出来てからは制作の拠点は鎌倉に移る
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最後は荻窪で亡くなった。その数日前の白山神社のお祭りの三味線の心付け
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荻窪で制作された代表作
「流離抄(りゅうりしょう)」
「涌然する女者達々(ゆうぜんするにょしゃたちたち)
「華狩頌」(はなかりしょう)など
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まとめ=荻窪は棟方がその円熟期を過ごしたところ
(1951年〜1975年)(昭和26年〜昭和50年)
(棟方49歳〜72歳)
棟方志功(1903年〜1975年72歳で没)

石井頼子著『もっと知りたい棟方志功』表紙は荻窪のアトリエで制作された「華狩頌」

荻窪の家の見取り図(配布資料を簡略化)

荻窪の家 細い路地の突き当たりにあった 背後に白山神社の松が見える

流離抄(昭和28年)吉井勇の歌に題材を取った

涌然する女者達々(昭和28年)