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2016年10月8日(土)長谷川潾二郎(りんじろう)

「シュルリアリズムの作品を見るような、まるで夢の中の出来事のような印象を受ける」(「荻窪風景」図録解説)。日常の風景を静かで深い詩情をたたえて描いた画家の思い出を、遺族が語る。

 

講師

長谷川光児

長谷川潾二郎の長男

 長谷川光児さんの話(要旨)

略歴 

昭和18年東京で生まれる。荻窪で育ち、中央大学卒業後神奈川県立図書館に勤務。定年退職後荻窪に暮らす。

 

長谷川潾二郎と荻窪

まず、なぜ長谷川潾二郎は荻窪に住んだかという点について話します。1930年、潾二郎が26歳のとき、潾二郎の父が荻窪二丁目にアトリエ付きの家を建ててくれ、潾二郎と弟の四郎と二人で住んだ。その後、神明町に同じくアトリエ付きの家を建てて移り住んだ。いずれの家も、父、長谷川淑夫(よしお)の出資で建てた家で、淑夫は函館で地元の「函館新聞」を主宰し、ついには社長となった人物で、兄、長谷川海太郎は流行作家で鎌倉に大邸宅を構えていた。潾二郎は二人のパトロンに恵まれて生活の心配は全くなく、芸術家の卵として生活していた。父、長谷川淑夫がなぜ荻窪を選んだかはわからない。地方在住の者が子女を東京に出す時にとる一般的な方法、つまり知人や不動産屋に相談して決めたのだろう。

「荻窪風景」は潾二郎の代表作の一つであり、多くの人に愛されている作品である。場所はどこかとよく人に聞かれるが、わからない。下り坂の向こうに上り坂が続き一番低い所には川が流れている。橋は絵でははっきりとは分からない。私の固定観念でここではないかという場所があったが、行ってみたがどうも違うようだ。

「七月(梅雨明)」この作品はよく覚えている。今の大宮前体育館の近く、以前は一面の畑だったところでそこから南方を描いたものである。他にも潾二郎は荻窪の風景を愛し、たくさん描いている。年を取ってからは健康が優れず、静物も花の絵もアトリエ内で描いたが、荻窪は制作の拠点でもあり、生活の拠点でもあった。戦後貧しく、父も兄も亡くなって経済的に困窮していた頃、弟の四郎もシベリアから引き上げてきた。荻窪二丁目の家でいくつもの家族が一緒になって暮らした。その家は手放してしまったが思い出の多い家だった。

「みかんと静物」何の変哲もない絵だが不思議な浮遊感がある。物たちが勝手に動き出して会話を始めているようだ。潾二郎は「絵は装飾品だ」とよく言っていたが、私が持っていれば居間に飾っておきたい。

「箱」最もシンプルな絵である。砂漠の上にそびえ立つ古代の記念碑のような印象がある。あるいは、人と見立てると、アジア人と西欧人とも見える。箱の奥の方が幅広く描かれており、距離感がわからなくなる。

潾二郎の日常的な様子を三つほどお話しする。家族でテレビドラマを見ているとき、感動的なシーンがある。潾二郎は大体はあざけるような表情を浮かべ、番組が終わると「あんなへたくそな芝居は見ていられない」「大根役者だ」などとけなす。母は「潾さんはいつもああだから…」とこぼしていた。二つ目は、近くに住んでいた親戚がよく潾二郎に相談に来ていた。小声で話しているのだが、そのうち声を大にして「潾さん、そんな非常識なことは出来ません」と怒って帰ってしまう。ところが数日後、その人がやってきて「言う通りにすることにしました」というのである。母は「潾さんには人に見えないものが見える」と言っていた。三つ目、母方の親戚にピアニストがいた。戦時中満州に演奏旅行し、結核になる。戦後闘病むなしく亡くなってしまった。周りの人が涙に暮れているのに潾二郎は「亡くなったものは仕方がない」と涙を流すことはなかった。これら三つのことから潾二郎には非センチメンタリズム的な傾向があったようだ。そしてこのことは、函館に生まれ育ったことと関係しているように思う。潾二郎は函館で生まれ、多感な思春期を過ごし、自らの進む道を発見した。あまり多くを語らなかったが、家出をしたこともあり函館に対しては複雑な思いを抱いていたようだ。

潾二郎が冬に写生に出かける時の様子を紹介する。まず防寒着を着込むが、これは陸軍の輸送機のパイロットだった知人から譲られたもので、毛皮製の上下つなぎのモコモコのもの。絵具箱、イーゼル、折りたたみ椅子、お弁当などをまとめて背負い、カンバスを風呂敷に包み手に提げる。下駄を履くが、足袋は妻の手縫いで底に赤唐辛子を敷き詰めてある。出かける姿は「今日こそ大きな鳥を捕まえるぞ」と森に飛び込んでいく狩人さながらだった。自然を、戸外で描くということに最高の価値を見いだしていた。自然と言っても人の手のつかない大自然を描くということはまれで、畑とか道とかの人の手の加わった自然であり、自然と人工物の調和をめざしていたようだ。

「バラ」明治製菓の広報誌の表紙を飾った絵である。これは印刷物として世に出ることを前提として描かれた絵である。この絵のバラは花弁の隈取りが強く、茎が鋭角的で、色づかいがモノトーンに近い。潾二郎は印刷物に相当強い不信感を抱いていて、よく美術雑誌の絵を見ては「この印刷はひどい」と言っていた。潾二郎はそのためにこのような工夫をしたのだと私は思う。

「アイスクリーム」潾二郎は自分の絵には欠点がある、それは描いている対象が水平にどんどん広がってしまうことだ、と言っていた。アイスクリームの絵はその欠点を逆手にとったかのような作品で、多くの人に愛されている。

「猫」これは潾二郎の傑作であることは万人が認めている。人はこのような作品を見ると感動する。同時に心のどこかでうろたえる。それを支えるために潾二郎は「タローの思い出」「タローの履歴書」を書いた。私にはタローの実在より絵と文が現実に思えるほどだ。

 

質問

作品の収蔵先について、好んでいた俳優、音楽、画家について、フランス留学時の思い出について、制作時間、現場主義について、など

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