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2016年4月9日(土) 児島善三郎

1951年、58歳の児島善三郎は井草川を望む小高い丘にアトリエを新築し、独自の色彩と筆致で辺りの風物を描いた。独立美術協会の創始者で「日本人の油絵」を目指した画家の「荻窪時代」を語る。

 

講師

児嶋俊郎(としお)

児島善三郎の孫 「丘の上のATP児嶋画廊」経営

 

児嶋俊郎さんは児島善三郎のお孫さんです。児島善三郎は荻窪に11年ほど暮らしました。俊郎さんは国分寺に暮らしていましたが、幼少の頃よく祖父のアトリエに遊びに行き、制作の合間にかわいがってもらったそうです。長年画廊経営に携わり、また、児島善三郎の作品の鑑定にもあたっています。

 現在経営している国分寺の「丘の上のAPT 児嶋画廊」はかつての善三郎のアトリエ跡に建てたもので、設計は藤森照信氏、不思議な夢のある建物です。

 

児島善三郎のほとんどの作品をインターネットで見ることができます。

KOJIMA Zenzaburo Digital Archive

「丘の上のAPT 児嶋画廊」

 

兒嶋俊郎さんの話

(お話は児島善三郎の生涯にわたりましたが特に荻窪時代についての部分を抄録します)

昭和26年善三郎59歳の時、単身荻窪の新町、丘陵の南東の鼻の上の松林に住んだ。私は子供の頃西荻駅で降りて上石神井行きのバスで行った。西荻は国分寺から来るとしゃれた街だった。荻窪の家では祖父を「先生」と呼ぶように言われた。画商がたくさん来ていてマスカットメロン、高級お菓子、卵ソーメンなどがあった。先生が留守の時アトリエに入れてもらったが描きかけの絵がたくさん並んでいた。善三郎は現地で写生し、アトリエで手を入れてさらに手放す時もう一度手を入れてサインして渡す。荻窪には丸10年過ごした。洋風のアトリエは北側に採光窓があった。玄関前にロータリーと車寄せがあり、池を配し、備前の壷を玄関脇に据えて庭には桃ノ木などを植えていた。再渡欧するのが夢だったが宿痾の結核が再発し荻窪に越したとたんに喀血、夢は果たせなかった。善三郎が博多の弟に出した手紙に「寂寞たる生活を続けている」と認めている。弟は生涯にわたって兄を経済的に支えた。荻窪時代に描いた絵は、風景画では「犬吠埼」体調のいいときは写生旅行に出た。「西伊豆」独立展最後の作品で、構成し直し元の絵の右の半島を省略している。「ミモザの花」善三郎がたどり着いた特許スタイルだ。人物では三田佳子、伊藤絹子などを描いた。絶筆の「花」、時間の永遠性を感じさせる清澄な境地に到達した。

 

 

 

近所に住むNさんの話

「昭和32年に近所に越してきた。児島善三郎さんのお宅は道路から玄関前まで広い道があって、車も中まで入れた。何かの展覧会に出すのか、100号か200号の大きな絵が周りの植え込みを背に、ずらりと立てかけられていて、善三郎さんが腕組みをして吟味しているのを見たことがある。善三郎さんは体格ががっしりとしていて立派で、とても威厳があった。当時、三大洋画家と言われていた。赤い屋根の洋館もすてきで思い出すととても懐かしい。道を一本隔てた通りには糸園和三郎さんも住んでおられた。ほっそりした静かな方でした。」

 

 

 

白い建物

善三郎が荻窪時代にアトリエ周りを描いた絵に、繰り返し出てくる白い建物がある。この建物は、いったいどこだろう。

まず思い浮かぶのは荻窪病院。荻窪病院のホームページを開くと旧本館の白い建物の写真があって確かに似ている。そこで戦後富士精密に勤めていた古老を訪ね絵を見てもらった。「違いますね。荻窪病院の周りにはもっと民家が密集していました。」ではどこだろう。現地に行って善三郎のアトリエ跡に立ってみるが、眼前に杉並工業高校の大きな校舎が視界をふさいでいて、確かめようがない。近くの門前で落ち葉掃きをしていた人を見つけて絵を見てもらうが判然としない。次に、1万分の1の地図「石神井」で詳細に標高をたどって、アトリエ付近の地形を確認してみる。すると井草川を挟んでアトリエの対岸に見えるのは都立農芸高校か、区立三谷小学校の二つであることが分かった。そこでこの二つの学校に連絡して、校史か卒業アルバムを見せてもらえないか頼むと両校とも協力してくれた。まず三谷小学校で古い木造二階建ての校舎の写真を見せてもらったが、白いコンクリートの建物はない。それに三谷小学校の建つ位置は低すぎる。絵の中の建物は丘の上の方に建っている。次に農芸高校を訪ねると、校長室に旧本館の写真が飾ってあるというので拝見に伺う。写真には戦前のものとおぼしい立派な洋風の本館が写っているが、絵とは似ていない。さてどうしたものかと途方に暮れていると職員の方が、会議室のアルバムに戦後建てられて、今はもう取り壊されてしまった校舎の写真があることを思い出してくれた。早速見せてもらうと、これだ、まさに絵のままの建物だ、実習棟という校舎で温室のボイラー用の煙突も写っている。絵の中の白い建物は農芸高校にほぼ間違いない。(「四月の田園」参照 新倉)

四月の田園 1956年

早春 1953年(善三郎のアトリエ)

木立 1955年

西伊豆 1961年 下の作品の右手の半島を消している。

(参考)西伊豆風景 1941年

森と聚落 1958年 

アトリエから北側の風景。麦畑と屋敷林を描く。

絶筆「花」1962年

アトリエは青梅街道、井草八幡宮の北側にあった。近くに井草川の湧水点があり昔は水が湧いていて滝のようだったという。辺りには一面の麦畑が広がっていた。

昭和32年頃の三谷小学校から西側を見た風景。正面奥の森はこの辺りの地主の屋敷林。その左手の樹林の中に児島善三郎のアトリエがあったと思われる。

「レンズの記憶ー杉並、あの時、あの場所ー」杉並区立郷土博物館 p29

善三郎のアトリエの見取り図。この図では下が北側になる。アトリエには北側に明かり取りの窓があった。玄関前に大きなロータリーがあった。

​アトリエの前に立つ善三郎。アトリエは現存しない。

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