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2017年3月11日(土)前田寛治(まえたかんじ)

1928年、寛治は荻窪に「前田写実研究所」を開設した。翌年入院するまでの約1年間制作に明け暮れ、傑作「棟梁の家族」などを残した。日本近代美術の最前線を駆けた画家の早すぎる晩年を語る。

 

講師

原田光さん

日本近代美術研究者

​神奈川県立近代美術館学芸員を勤め、横須賀美術館の立ち上げに関わった。横須賀美術館副館長、続いて岩手県立美術館長を歴任した。

原田光さんの話(要旨)

 

 前田寛治は若くして死んだ。同時代人では佐伯祐三も30で死んだ。村山槐多も20ちょっとで死んだ。早死にしたこういう画家たちがもっと生きていたら、どんな絵描きになっていたのかと思う。

 前田寛治は鳥取、倉吉で生まれた。優秀な成績で小学校を卒業し、中学へ進んだ。中学校では福本和夫と同級だった。後に共産党の理論家となるこの友人と深い友情を結んだ。ごく普通の少年だった前田が不意に絵描きになりたいと言った時、解放的な考えの持ち主だった父は許した。やがて東京美術学校に入り画家をめざす。このころ郷里倉吉で川本という学校の教師と知り合う。この川本は20代の半ばで、生徒を引率して海水浴に行った時溺れかかった生徒を助けようとして自らが溺死してしまう。宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の登場人物はこの人物がモデルではないかと言われている。

 卒業後大正11年、パリに留学し佐伯祐三、中山魏(たかし)、中野和高ら留学生仲間(前田は「パリの豚児の群れ」と呼んだ)と寝食をともにしながら創作に励んだ。ベルリンに留学していた福本和夫とも交流があった。この頃、写実を猛烈に勉強した。フランスにはクールベ以来のリアリズムの伝統があった。帰国後留学生仲間と「1930年協会」を設立した。

(作品鑑賞)

「二人の労働者」(1924)画面上方に「労働者階級は…」と字が描いてある。福本和夫の影響か?

「赤い帽子」(1925)これまでの荒いタッチの労働者像とは全く違う写実的で細やかな筆づかい。西洋婦人の端正な顔を描く。

「赤帽の子」(1927)これもまた表現方法が違う。筆のタッチを残しさっと描く。

「棟梁の家族」(1928)天沼の家を建てた大工さんを描いた。このアトリエは湯島にあった自分の研究所を解体移築した。画法は線を何度も繰り返すかと思えばべたっと塗ったところもあり未完成の魅力がある。

「新緑風景」(1929)杉並の風景か?薄く地を塗ってからタッチで輪郭を描いていく。

 あと10年前田が生きていたらどんな絵を描いていただろう。そのことを思うと早い死が惜しまれる。

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