連続美術講座 画家たちの荻窪

荻窪画家地図
画家紹介(50音順)
明田川孝(あけたがわ たかし)
〔彫刻家〕新潟県生まれ1909〜1958(明治42〜昭和33) 49歳
荻窪在住期間1940〜1958(昭和15〜昭和33)
東京美術学校彫刻科に学び、卒業後は国画会で活動し「国画奨励賞」を受賞した。1939(昭和14)年本郷新、佐藤忠良、船越保武らと新制作派協会彫刻部の創設に参加。また、オカリーナの研究家としても知られ、世界で最初に「12穴式オカリーナ」を完成させた。
―手作りの荻窪の家―
「明田川が盟友たちと袂を連ねて国画会から新制作協会に転じ、彫刻部の創設に与ったのは昭和十四年で、第四回展から彼はこの会に所属するようになった。翌十五年、彼は和子夫人を迎えて現在の荻窪へ一家を構えたが、彼の住居にまつわる数々の微笑ましい逸話ほど彼の特異な人柄を浮き彫りしているものはない。彼はそれまで代々木上原の義兄の家の裏庭に、人手を借りずにじぶんで建てた小屋のようなアトリエに住んでいたが、椅子テーブルから塑像台に至るまでいっさいの家具調度は悉く手製であった。戦後、荻窪へ建てたアトリエも、骨組みだけは大工を使ったが、あとはすべてじぶんの手で仕上げた。壁などは長い月日をかけて少しずつ塗って行き、それをむしろ楽しんでいる風だったらしい。」
(柳亮「明田川孝の芸術」『明田川孝作品集』昭森社1960年)
―オカリーナの研究者として―
「彼のもう一つの仕事にオカリーナの完成がある。恐らく学生時代手にした外国製のオカリーナの素朴な音色と彫刻的なこの楽器の形体とが彼の芸術的情感にぴったりと密着してしまったのだろうと思う。素人の私がこのオカリーナについて詳しく書くわけにはゆかないが、完全な音律を出すため結局自分でオカリーナを作り始め、遂に半音階をも自由に吹くことを工夫し完璧な楽器を作出した努力と功績は一九五三年東京都知事賞として表彰されたのである。」
(山内壮夫「破間川のせせらぎ」『明田川孝作品集』昭森社1960年)
阿部合成(あべ ごうせい)
明治43年〜昭和47年(1910〜1972)画家
青森県出身。昭和13年(1938)「見送る人々」が二科展に入選。昭和18年応召して満州へ出征、戦後シベリアに抑留され昭和22年に帰国した。その後、情念をむき出しにしたような表現主義的な画風になる。青森中学時代以来の友人・太宰治を記念する碑を五所川原市芦野公園に制作した。
池田淑人(いけだ よしと)
〔洋画家〕秋田県生まれ1886〜1981(明治19〜昭和56) 94歳
荻窪在住期間 ?〜1981(?〜昭和56)
18歳で英語教師に伴われて渡米、セロと絵を学ぶ。須田国太郎のすすめで関西美術院展に出品し、戦後自由美術協会に出品する。
―これほどの感動はない―
「(前略)荻窪のアトリエで作品『黄昏の春』『夜明の花』『双馬』の三点を見るにおよんで心がたかぶってくるのを抑えることができなかった。
感動はおもむろにやってくる静かな波のようだった。そしてそれは作品『万人の自画像』『馬鈴薯』に至って一つの頂点に達し、さらに初期の作品、デッサンと見てゆくうちにふたたび低音に、そこに池田淑人の純粋な宇宙が厳として存在していた。
絵に親しんで二十年あまりになるだろうか。ただし、日本の、現存の画家の作品の前でこれほど感銘を受けたことはなく、心底批評家冥利につきると思ったのである。」
(坂崎乙郎「池田淑人の世界」『池田淑人個展』紀伊国屋画廊1973年)
石山太柏(いしやま たいはく)
〔日本画家〕山形県生まれ1893〜1961(明治26〜昭和36) 68歳
天沼在住期間 ? 〜1961(?〜昭和36)
大正3年、文展、院展に初入選。大正8年の個人展覧会に出品した《天沼の弁天池》を有島武郎に激賞された。以降院展、帝展に出品を重ねるが、昭和10年以降は独立画家としての道を歩み始める。天沼に大正7年ごろから住み、天沼、荻窪、井草近辺に残る武蔵野風景を精力的に描いた。また茶道にも造詣を深め、昭和26年、日本茶道院を創設した。
―生命の安否ほどに気がかりなこと―
「つまり、武蔵野風景を、生涯の主な作品テーマとした太柏にとっては、たとえば暮れなずむ黄昏どきの、田園にかかる夕靄が、その濃淡、色調の一分一秒の変化が、生命の安否ほどにも気がかりなのである。」
(角佳子『大正の女』弘文堂1966年)
―太柏と小茂田青樹―
「昭和八年に四十二歳で夭折したすぐれた日本画家小茂田青樹という人がいた。太柏は、寺崎広業の天籟塾を若くして去ってより、自分の師を持たず、唯我独尊、画家仲間というものも生涯ほとんどなかった。そのなかで青樹は、自分の先輩として、太柏がつき合ったほとんど唯一の画家であった。家も荻窪にあって、私(角佳子のこと—引用者注)も幼いころ、小茂田画伯のモデルに所望され、氏のアトリエに通った。」
(角佳子『大正の女』弘文堂1966年)
―僅差で同人に推されず―
「黒山の人だかりだった力作、秋草に月の屛風につづく家の庭を描いたその年の屛風も好評だった。もはや自分をおいて、同人に推されるものはあるまい、と内心思っていた矢先、院展同人選挙の結果は、一位奥村土牛、二位小倉遊亀、三位田中青坪、四位太柏で、三位までを同人とされたのだった。」(昭和7(1932)年の記述—引用者注)
(角佳子『大正の女』弘文堂1966年)
伊藤清永(いとう きよなが)
〔洋画家〕兵庫県生まれ 1911〜2001(明治44〜平成13) 90歳
成宗在住期間(1940〜2001)(昭和15〜平成13)
岡田三郎助に師事、東京美術学校を卒業。第10回白日会展に出品し白日賞を受賞、同年第14回帝展に初入選した。戦後も白日会、日展で活躍を続け、日本芸術院会員に就任、文化勲章を受章した。自宅近くに伊藤絵画研究所を新築し後進の指導にあたり、また杉並区公民館壁画として《春》を制作(現在セシオン杉並に展示中)した。
―日本女性の肌の美しさの描写―
「裸婦を本格的に制作しはじめたのは、戦後になってからのことで、色彩を活かしながら日本女性の肌の美しさを描くことにねらいを定めて研鑽を積み、1970年代には魅力あふれる裸婦の表現に到達します。1990年代に入ってからも旺盛な制作を続け、右眼の視力を失いながらも、色彩豊かな筆触をそれまでよりいっそう自在に操ることによって、見る者を深いやすらぎに誘う裸婦像を描き、1996(平成8)年には文化勲章を受章。」
(「ごあいさつ」『生誕100年伊藤清永展』中日新聞社2011年)
長女の伊藤晴子さんの話
父、伊藤清永は明治44年に城下町の禅寺の三男坊として兵庫県出石に生まれた。尋常小学校を出て、愛知県の今の愛知学院大学の前身である「第三中学林」(禅寺の子弟の修行のための学校)に入学し、そこで受けた美術の授業の純粋さに心を打たれ、絵描きを目指す。絵を始めたばかりの頃の作品が残っている。東京美術学校への進学を目指すが、父に言うと「お前は乞食になりたいのか」と反対され、「師範科なら許す」との条件で上京し長兄に面倒を見てもらう。
無事東美へ入学するが、すぐ病気になり医者から「20までは生きられない」と宣告された。母の献身的な看護で病気を乗り切り、東美を卒業、卒業制作は「裸婦」だった。翌年の昭和11年、文展で「磯人」が選奨(今の特選)を受け、本格的に画家の道を進み始めた。昭和15年、成宗1丁目に土地を買い住み始めた。目の前は全部田んぼで何もなかった。善福寺川は何本かに分かれて流れ、橋は木だった。客が来るとドジョウでもてなした。
戦争中は従軍画家の道はとらず、二等兵として出征した。ところが配属された部隊の隊長が伊藤清永の名を知っており優遇された。戦後、焼け跡に手作りでアトリエを再建した。もったいないことに壁紙に古いキャンバスを使ったりした。43歳の時(昭和29年)高木杉並区長に頼まれて杉並区公民館壁画「春」を制作した。戦後の一貫したテーマは裸婦像であった。また、全魂をこめ7年の歳月をかけて「釈尊伝四部作」を完成させた。
(2017年6月10日講演要旨)
小野忠重(おの ただしげ)
〔版画家〕東京都生まれ1909〜1990(明治42〜平成2) 81歳 阿佐ヶ谷在住期間 1948〜1990(昭和23〜平成2)
昭和4年、20歳の頃に左翼美術への関心を示し、昭和7年に「新版画集団」を結成して版画家としての活動を開始した。戦後は独自の多色刷り木版画を考案し、新しい表現世界を築いた。昭和23年、阿佐ヶ谷に家を購入して住んだ。
―激しく転変する時代のただ中で―
「昭和という激しく変転した時代、その風涛のただ中に呻吟しつつも懸命に生きた証である版画による表現を中心とした作品群、またはば広く、地道で克明な資料の博捜に基づく版画史に関する著作等々。」
(村田哲朗「『小野版画ノ守忠重』と尊称された人」
『生誕100年小野忠重展録』町田市立国際版画美術館2009年)
小茂田青樹(おもだ せいじゅ)
〔日本画家〕埼玉県生まれ 1891〜1933(明治24〜昭和8) 41歳
下荻窪在住期間1924〜1932(大正13〜昭和7)
川越に生まれ、画家を志して上京、松本風湖に師事。1921(大正10)年代表作「出雲江角港」を出品、院展同人となる。1924(大正13)年荻窪に転居、武蔵野風景を画題とした作品を発表。1929(昭和4)年自宅に画塾「杉立社」を組織し、自らは田端(旧地名)の借家に住んだ。
―田端の画室から見た風景―
「この「田園小景」とか「花曇りの日の丘」なんかも先生の画室から見た風景ですね。画室の前が麦畑で、その向こうが田んぼなんです。
「寒林」もそうですね。画室の隣りに林があってね。実際とはちょっと違ってますがね。
この「晩秋風景」(焚火)ね、これは一度先生が屑籠に捨てたんです。ちゃんと落款してあったんですがね。それを速水さんが「いい作品じゃないか」っていって取り上げたんです。」
(語り手:田中青坪『小茂田青樹とその周辺展』
埼玉県立美術館1984年)
恩地孝四郎(おんち こうしろう)
明治24年〜昭和30年(1891〜1955)版画家・装幀家
荻窪在住期間(昭和7年〜昭和30年)
東京美術学校に入学後、詩と版画の雑誌「月映」を創刊し抽象的な作品を発表、その後、詩や版画、油絵、装幀に活躍した。版画協会で作品を発表、大正初期以来、創作版画の振興に尽力し、また版画において抽象作品を描きつづけた最も早い一人であつた。近年は日本における抽象表現の先駆者と評される。
―公用ジープがしげしげと―
「日本版画協会はそのころ、戦災を免れた荻窪の恩地孝四郎宅を事務所にしていた。ある日、教育本部での創作版画展の企画をもって、ハートネット中佐が訪ねてきた。通訳を伴なっていたが、恩地家には英語のよくできる娘三保子がいた。以来、公用ジーブが荻窪の奥まった路地にしげしげとやってきて、近所の人の目をひいた。」
(池内紀『恩地孝四郎 一つの伝記』幻戯書房2012年)
恩田秋夫(おんだ あきお)
大正13年〜平成19年(1924〜2007)版画家
東京生まれ。荻窪に居住。昭和31年(1956)武蔵野美術学校西洋画科卒業。昭和38年〜42年武蔵野美大で棟方志功の助手を務める。画集に『日本の子供風物詩』『一茶の四季』『行雲流水 永平寺の日々』がある。
川崎小虎(かわさき しょうこ)
〔日本画家〕岐阜県生まれ1886〜1977(明治19〜昭和52) 90歳
阿佐谷在住期間1926〜1977(大正15〜昭和52)
祖父の川崎千虎のもとで大和絵を学び、東京美術学校を卒業。大正3年、文展に初入選、大正5年特選。以降文展、帝展、日展で活躍した。大正15年、阿佐ヶ谷の新居に移り住んだ。
―夕方の阿佐谷の家からの散歩―
「小虎は、毎日夕方になると散歩をかねて町を歩きスケッチをした。自宅に近い荻窪や井ノ頭公園や新宿などである。高価なものよりも庶民的なものを好んだ彼にとっては、ガード下や裏通りなどの光景に心ひかれたのであろう。」
(「裏町(自転車)」作品解説『生誕100年記念 川崎小虎展
−清らかな日本画の巨匠−』岐阜県美術館 日本経済新聞社1986年))
神津港人(こうづ こうじん)
〔洋画家〕長野県生まれ1889〜1978(明治22年〜昭和53)88歳
荻窪在住期間 1924〜1978(大正13〜昭和53)
東京美術学校を卒業後、イギリスで学び帰国。1928年彫刻の美術団体「構造社」に加盟し絵画部主任となった。1932年のロサンゼルス第10回オリンピックに日本初の芸術競技役員として参加した。戦後は第一美術協会などで活躍。荻窪には1924年より居住し、緑豊かな自宅周辺や善福寺川の風物を明るい筆致で描いた。
―光と色彩の追求―
「神津港人はこうして風土に根ざした人間と自然の融合、光と色彩の追求という画家のロマンをアカデミックな手法を堅持しながら誠実に追求し続けたのである。そこには近代洋画家の長い苦闘の後に達した珠玉のような作品が残されているのである。」
(伊豆井秀一「神津港人の画業〜構造社時代を中心に」
『信州写実の巨星 神津港人展 作品寄贈記念展図録』
北御牧村立梅野記念絵画館2002年)
児島善三郎(こじま ぜんざぶろう)
〔洋画家〕福岡県生まれ 1893〜1962(明治26〜昭和37) 69歳
新町在住期間1951〜1962(昭和26〜昭和37)
1922(大正11)年二科展に出品し、二科賞を受賞。渡仏後、独立美術協会の創設に参加。1951(昭和26)年上井草にアトリエを新築、国分寺から転居。亡くなるまでの約10年は「荻窪時代」と呼ばれ、再発した結核と闘いながら、井草川を望む風景など佳作を数多く残した。
―新町への転居―
「昭和二十六年(一九五一)七月、児島は国分寺から杉並区新町七八番地(現在―杉並区上井草四−一二)に転居した。「国分寺もいよいよ倦きたし、どこか住いを替えないとどうも新鮮な画も出来そうになく」(児島善一郎宛昭和二十四年八月一日付書簡)、数年前から西荻窪あたりを物色していたもので、ここも児島好みの「小松のある高台で(略)前が一面の田園で東南西が開け、うしろが大きい森になっている処」(同、八月二十五日付)であった。
児島の転居は、大体十四、五年を周期としているが、そのいずれの場合も、新しい画境を開拓する上で重要な意味をもった。郷里の最後の家作を手離し、金策に奔走して荻窪にアトリエを新築したのも、新しい環境の中で気分を一新し、次の飛躍を期そうという児島の意欲に他ならなかった。」
(古川智次編「荻窪時代」『近代の美術第59号児島善三郎』
至文堂1980年)
清水登之(しみず とし)
〔洋画家〕栃木県生まれ1887〜1945(明治20〜昭和20) 58歳
成宗在住期間1927〜1929(昭和2〜昭和4)
はじめ軍人を目指すが陸軍士官学校の受験に失敗し、絵画修行のため渡米。ニューヨークで絵を学び、さらにパリへ移り、下層庶民の生活や街頭風景を哀感豊かに描いた。サロン・ドートンヌ、アンデパンダン展へ出品。帰国の翌年、1927(昭和2)年に杉並町成宗に仮寓し、三鷹村牟礼に移るまでの約2年間を過ごした。
―成宗から井之頭への転居―
「私の長男は紐育で生れたのであるが、欧州を一緒に連れ回って帰国した年に、いまの杉並区のある小学校へ入学さした。別に病気という病気は持っていないが、生れつき虚弱の方で、一人子でもあるしどうにかして頑丈な体格にしてやり度い念願から二三年後、空気の澄んだ井之頭公園近くへ移転して、そこのある学園へ転校さした。」
(清水登之「夏朝」『私の作品—感想』『清水登之展』武蔵野市1991年)
鈴木信太郎(すずき しんたろう)
〔洋画家〕東京都生まれ 1895〜1989(明治28〜平成元) 93歳
荻窪在住期間1930〜1951(昭和5〜昭和26)
昭和5年、八王子から荻窪の白山神社の近くに移り住んだ。「コロリスト」(色彩画家)と言われ、色彩感豊かで童画風の画風で多くのファンを惹きつけた。西荻こけし屋のフランス人形の包装紙が今も親しまれている。
―鈴木信太郎君との付き合い―
「鈴木信太郎君と云う画かきさんがあるが、之はよくきてくれたり、こっちもよく行ったが西洋画をかかぬようになってから一向往復せぬようになった。
この人は八王子出身で、所謂青年画家らしい気取った風貌は少しもなく、いかにも田舎の宿屋の伜のようで面白い。話がすきでいくらでも続く。もう帰りたいと思っても話がきれないから、帰るすきを見出すのが中々骨が折れる。」
(津田青楓『懶畫房草筆』中央公論社1941年)
関野準一郎(せきの じゅんいちろう)
〔版画家〕青森県生まれ 1914〜1988(大正3〜昭和63) 73歳
荻窪在住期間1939〜1941(昭和14〜昭和16)
郷里青森で今純三に銅版画を学び上京、恩地孝四郎に師事した。師のもとに集まった若い版画家たちの集まりである一木会の中心的存在。代表作「東海道五十三次」で芸術選奨文部大臣賞を受けた。
―在京芸術家懇談会での出来事―
「後に私が荻窪のアパートに住むようになった頃、東奥日報社主催の在京芸術家懇談会があり、私も郷土出身の画家として出席できた。作家の秋田雨雀、石坂洋次郎、太宰治、今官一、舞踏家の江口隆哉、彫刻家の三国慶一、中野桂樹、画家の鷹山宇一、棟方志功などがいた。
棟方志功は「御高名は承っておりました。」「お仕事はよく拝見して、心にいたしております。」と会場全部に聞える大声で挨拶していた。太宰治はそういう情景を嫌って、野次を飛ばしていたが、まだ会も終わらぬのに「帰ろう。」と傍に坐っていた私を引っぱるようにして会場をのがれ、円タクに乗せた。」
(関野準一郎『版画を築いた人々』株式会社美術出版社1976年)
田河水泡(たがわ すいほう)
〔漫画家〕東京都生まれ1899〜1989(明治32〜平成元) 90歳
荻窪在住期間1933〜1960(昭和8〜昭和35)
昭和初期の漫画家。代表作『のらくろ』シリーズは子供たちに爆発的な人気を博した。1933(昭和8)年東荻町に転居し、1940(昭和15)年近くの高台に引っ越した。
―庭のある家を探しに荻窪へ―
「(前略)田河もどうしても庭のある家に住みたいというので、当時は未だ郊外だった今の荻窪まで倉金を連れて、家を探しに行った。
帰ってきて、田河よりも先に私の部屋に飛び込んできたのは倉金だった。
「奥さん、奥さん。とてもいい家が見つかりましたよ。新しい建て売りの家、南側と東側に広い庭があってぐるりは原っぱで空いているし、静かないいところですよ」
今は荻窪もぎっしりと詰まった住宅地になってしまったが、そのころはまだ空き地があちこちにあって、家もまばらであった。」
(高見澤潤子『長く生きてみてわかったこと』大和書房1998年)
田中青坪(たなか せいひょう)
〔日本画家〕群馬県生まれ1903〜1994(明治36〜平成6) 90歳
東荻町在住期間1929〜1994(昭和4〜平成6)
小茂田青樹に師事して日本画を学び、明るく清新な画風で院展で活躍した。荻窪には1929(昭和4)年頃に居を定め、温厚な人柄を慕われて多くの画人と交流し、また東京芸術大学教授として多くの画家を育てた。水戸偕楽園好文亭のふすま絵を手がけた。退官後は連作「浅間高原」シリーズに取り組んだ。
―洋画家との親交から得た表現―
「はじめに洋画を学び、一八歳で小茂田青樹に師事してから日本画家の道を進んだ青坪は、所属団体や洋画・日本画の区別なく多くの画家と親交があり、将棋仲間であった梅原龍三郎ら洋画家との交流は、モダニズムを追究する青坪の表現に影響を与えました。マティスやピカソ、デュフィなど西洋絵画の研究は構図や色彩に活かされ、戦後は新しい日本画を模索しています。」
(辻瑞生(アーツ前橋)「ごあいさつ」
アーツ前橋編『田中青坪 永遠のモダンボーイ』水声社2016年)
津田青楓(つだ せいふう)
〔洋画家・日本画家〕京都府生まれ1880〜1978(明治13〜昭和53) 97歳
荻窪在住期間1930〜1944(昭和5〜昭和19)
はじめ日本画を、続いて関西美術院で洋画を学び、渡欧。帰国後夏目漱石らと交流し、二科会の結成に関わる。河上肇の影響で左翼的傾向を示すが、晩年は良寛研究に没頭。荻窪で、前田寛治没後のアトリエに津田洋画塾を開いた。戦後は高井戸に住んだ。
―津田青楓のため鈴木信太郎が探した荻窪の家―
「京都から津田青楓先生が門下二十数名を引つれて東上されて来たのもその頃(昭和6年頃—引用者注)であった。荻窪の奥、天沼の元前田寛治氏のアトリエを買って、そこを洋画研究所にするとのことで、家を探してほしいとのことであった。始めてその近くの弁天池のまわりなどを探したのであった。(中略)いったん家へ戻ると、津田先生は京都から着いたばかりであった。私の探したその家は裏口の木戸を開けるとすぐ通りを隔てて荻窪駅の北口に出られるところであった。昔ドイツ人が住まったとかいう洋館風な日本家屋で、石門のついた庭のある一構えがたしか十何円位の借賃であったと思う。先生はそこが非常に気に入って、初めは家主がすぐ承諾しなかったが漸く納得して先生は住むことになった。あの家は駅へも便利であったし、いい家でもあった。皆なれた人は裏口からばかり入ってくると言われた。又朝早くは駅に近道のため、まだ皆寝ている内に通勤者が津田先生の石門を飛び越しては庭を横ぎり、北口駅前に駈けつける人が度々あるとよく聞かされたことがあった。」
(鈴木信太郎『阿蘭陀まんざい』東峰書房1954年)
―警察に検挙される―
「昭和八年七月十九日、朝二人の刑事が亀吉(青楓のこと—引用者注)の家へやってきた。そして家宅捜索をやった。
そのころ亀吉は既に画室へ行って仕事にとりかかり制作に余念なかった。
亀吉の宅は荻窪にあり、駅から小路を二、三度曲って、裏通りの分かりにくい所だった。画室は、そこから徒歩で七、八分のところで、大通りではないがやや路は広く、門を入ると左側が亀吉の画室で、庭のつき当りが塾になっていた。(中略)
ある日、女中が呼吸(いき)をはずませて駆け込んできた。「今刑事らしい人が二人、家の前へ来ています。こちらへやってくるかもしれません。裏木戸から出て、近道をして知らせにきました。」
と云い捨てて、引きかえした。
画室には古い作品や描きかけのキャンバスやらが所せまいほど壁に立てかけられてあり、目下制作中の画架を中心に絵の具やスケッチブックやらが散乱していた。一昨年出品して問題になった『ブルジョア議会と民衆の生活』、それと昨年の『疾風怒濤』は、余り大きくて場所ふさぎになるので、既に枠から取りはずして巻いたまま片隅においてあった。
それよりも心配したのは目下制作中の『犠牲者(拷問)』の画だった。そいつは余り生々しく、警察の連中を刺激すること百パーセントという作品なんだ。(中略)
「立花君、こいつは、うまく、どこかへ隠そう。絵の具が乾かないが、巻いてしまってくれ。」
そう云って刑事の目につかない場所はないものかと、画室中をグルグル見回したが、恰度古ぼけた屛風の箱があった。蓋には塵埃(ほこり)が一ぱいたまっていた。「立花君、そいつを、あの屛風の箱へ入れよう。」
そう云って、画架には静物の未完成のキャンバスを立てかけておいた。
女中が帰って、隠し終えるまで高々五分ぐらいだった。そして二人の刑事がやってきた。(後略)」
(津田青楓『老画家の一生』中公美術出版1963年)
橋本明治(はしもと めいじ)
〔日本画家〕島根県生まれ1904〜1991(明治37〜平成3) 86歳
天沼在住期間1954〜1991(昭和29〜平成3)
東京美術学校で松岡映丘に師事。昭和12年、新文展で特選を受け戦後は日展で活躍した。肉太の線描による独特の「橋本様式」を確立し、昭和49年、文化勲章。天沼に昭和29年より住んだ。
―天沼への転居の決め手―
「ところで昭和二十九年早々、私は手狭になった新宿内藤町の家から他への引っ越しを考えるようになった。やがて知り合いの方から、杉並区荻窪(現天沼二丁目)に手ごろな物件があるからみにいきませんかと誘われた。正月五日の夕方五時ごろ、知人ともども現地についた時は、もうあたりは暗かった。一応家をみせていただいたが、即答もできないので「もう一度参ります」と売り主の方にいい、「ところで、こちらへ来る時は近所に何か目印のような建物はありませんか」とたずねた。「ああ、それなら家の二軒おいて隣が熊野神社ですから」との話。私はお宮さんの近所ときいて、「おやおや」と思った。またしても、なのであった。
私はこれまで引っ越しのたびに神社と縁が切れないのである。必ず家のごく近くにお社があった。(中略)その晩私は家内と二人でこの不思議なご縁のことを語り合い、一も二もなく「決めちゃおう」と翌朝早速電報を打って購入することにした。」
(『私の履歴書』日本経済新聞社1984年)
長谷川町子(はせがわ まちこ)
〔漫画家〕佐賀県生まれ 1920〜1992(大正9〜平成4) 72歳
荻窪在住期間(1936年)
『サザエさん』『意地悪ばあさん』などで有名な漫画家。1936(昭和11)年、山脇高等女学校卒業と同時に田河水泡の内弟子として11ヶ月間荻窪に住んだ。
―荻窪の田河水泡との初対面―
「ある日、私はアメ玉を口に、ねころんで、「アー、田河水泡のお弟子になりたいなァ」とつぶやいたのです。
「ピンク―レディーのサインがほしいなァ」といった、たぐいです。「のらくろ」は当時天下に、ばくはつ的な人気を巻きおこしていましたから。一時期のたわごとと聞き流せば良いものを、母はただちに姉に命じて、私を荻窪(おぎくぼ)の先生宅に参上(さんじょう)させました。
堅(かた)く閉じたる安宅(あたか)の関。番卒(ばんそつ)は、若いニキビのお弟子さんです
「先生は、今忙(いそが)しいから会えません」
予想(よそう)どおりでした。だが待てよ、“ガールズ―ビイ―アンビシャス”“なせば成る”こうなったら押しの一手です
「九州からはるばる出てきたんですから、ぜひぜひ」
困ったお弟子さんは、ピンポン玉のように玄関と奥を往復したあげく、ついに書斎(しょさい)に通されました。あこがれの方は、ナイトキャップをかぶって机の前に、描(か)きかけの原稿(げんこう)をひろげて座っておられました。」
(長谷川町子『サザエさんうちあけ話』姉妹社1979年)
―町子さんがいなくなっても教会に通い―
「熱心なクリスチャンだった彼女の母親は、娘を預けるときに私にこう言った。
「どうぞ町子をよろしくお願いいたします。何も知らない者ですから、何でもよくしつけていただきたいと思います。こちらからのお願いは何もありませんけれど、町子は子供のときからずっと教会に行っておりますので、日曜日にはどこの教会でも結構ですから、教会に行かせてください。お願いいたします」
私はキリスト教主義の東京女子大を卒業したくせに教会には行っていなかったし、信者にもなっていなかった。すぐ隣に小さな教会があるので私は承知して、それから毎日曜、町子さんをつれて教会へ行くことにした。町子さんの母親はたいへん喜んで、私に新しい聖書と賛美歌集をくださった。
そうなると教会を休むわけに行かず、忠実に私は教会通いをした。おかげで牧師夫妻、教会員の人たちと親しくなり、教会が狭くて集会室もないので、私の家の座敷を開放して、婦人会やそのほかに提供した。そんなおかげで、町子さんがいなくなっても、私一人で教会に通い、私は昭和十三(一九三八)年十月に荻窪教会で、洗礼を受けたのである。」
(高見澤潤子『永遠のふたり 夫―田河水泡と兄―小林秀雄』
講談社1991年)
長谷川潾二郎(はせがわ りんじろう)
〔洋画家〕北海道生まれ 1904〜1988(明治37〜昭和63) 84歳
荻窪在住期間1930〜1988(昭和5〜昭和63)
北海道生まれ。20歳で単身上京し川端画学校に学ぶ。渡仏後二科展に初入選。以後、個展を中心に作品を発表した。対象を熟視し微細な筆づかいで描かれた作品は非現実的な趣きを帯びる。昭和5年(1930)、弟の長谷川四郎と荻窪の庭とアトリエ付きの家に住み、荻窪近辺の区画整理後の家や林、道路などを詩情豊かに描いた。また愛猫のタローを描いた「猫」は多くの愛好者を持つ。
―猫がこのポーズをするまで―
「「猫」の絵だけは、六年前にもう完成していた。完成していると思ったので、私は譲ってくださいと頼んだ。すると長谷川さんは、まだ髭がかいてないからお渡しできませんと言った。言われてよく見ると、なるほど髭がない。
「では、ちょっと髭をかいてください」
と、私は重ねて頼んだ。すると長谷川さんはまたかぶりを横に振って、猫が大人しく坐っていてくれないと描けない、それに、猫は冬は球のように丸くなるし、夏はだらりと長く伸びてしまって、こういう格好(読者は口絵を見てください)で寝るのは年に二回、春と秋だけで、だからそれまで待ってくれ、と言うのであった。
長谷川さんの絵のかき方を十分承知しているつもりの私も、これには驚いた。なにも髭だけかくのに猫全体がそっくりこれと同じ形になるのを待つことはあるまい、そうは思ったが、穏やかなようでも言いだしたら聞かない長谷川さんである。(中略)私は言われるとおり待つことにした。」
(洲之内徹『絵のなかの散歩』新潮社1973年)
林武(はやし たけし)
〔洋画家〕東京都生まれ 1896〜1975(明治29〜昭和50) 78歳
井荻町上荻窪在住期間1929〜1932(昭和4〜昭和7)
苦学しながら日本美術学校に入学、翌年中退、二科展に出品した。独立美術協会の創立に参加、以後出品を続ける。鮮やかな色彩を大胆な筆致で描く作風を確立。東京芸大教授をつとめ、文化勲章を受章。
―前衛芸術の旗手―
「大正15年(1926)精鋭の画家たちの集まる1930年協会に加わり、昭和5年(1930)には「芸術に殉ずる激しい意欲をもって、世俗の出世などに反逆する」独立美術協会の創立会員となり、フォーヴィスムに発する前衛芸術の旗手となりました。」
(「あいさつ」東京都庭園美術館編『生誕100年記念林武展』
毎日新聞社1996年)
前川千帆(まえかわ せんぱん)
〔版画家〕京都府生まれ 1888〜1960(明治21〜昭和35) 72歳
荻窪在住期間 1950〜1960(昭和25〜昭和35)
関西美術院に学び、上京し読売新聞社で漫画家として出発した。第一回日本創作版画協会展に出品し、帝展にも出品。風趣あふれる画風で昭和の都会風景や庶民の生活風俗を描いた。またライフワークとして、全国の温泉風景を訪ねた『浴泉譜』に取り組んだ。戦後、東荻町に住んだ。
―『浴泉譜』が完成するまで―
「さて戦後、再び帰京してからの活動もことさら戦前と変るところはなかった。そのモチーフは出湯や娘、子ども、また旅行先の風景であったが、色彩的には豊かさを増し、また近代女性風俗にもシャープな感覚をみせる。そして代表作の『浴泉譜』の連作にうちこみその第5集の完成は千帆死去の前年であった。」
(吉田漱「前川千帆―その資質と作品」
『前川千帆名作展』財団法人平木浮世絵財団リッカー美術館1977年)
前田寛治(まえた かんじ)
〔洋画家〕鳥取県生まれ 1896〜1930(明治29〜昭和5) 33歳
天沼在住期間1928〜1930(昭和3〜昭和5)
パリに留学後佐伯祐三、里見勝蔵らと「1930年協会」を結成し、近代日本洋画界の若きリーダーとして活躍した。昭和3年、天沼に「前田写実研究所」を設立した。またアトリエを建てた大工から着想を得て、大作《棟梁の家族》を制作した。天沼に住んでわずか1年で病を得、東京帝大付属病院に入院し翌年亡くなった。
―死の二日前の病床で―
「その時(病室の―引用者追記)壁には百号と百二十号の白いキャンバスが立て掛けられ、傍に前年春描いた荻窪一帯の風景の総合『風景』五十号も並べてあった。寛治は、『風景』五十号を基にして帝展出品の制作を構想し始めており、後間もなくして、「大きい方の絵は構図が出来た、あとは色だけだ」と周囲に洩らすようになる。筆は執れずとも、寝ながらこの絵の事を絶えず考えていたのである。」(1930年、死の2日前の記述—引用者注)
(瀧悌三『前田寛治』日動出版1977年)
水上信雄(みずかみ のぶお)
明治37年〜平成6年(1904〜1994)画家
東京美術学校西洋画科を卒業。第6回帝展に入選し、以後出品を続ける。光風会会員。
三谷十糸子(みたに としこ)
〔日本画家〕兵庫県生まれ 1904〜1992(明治37〜平成4) 87歳
荻窪在住期間1951〜1992(昭和26〜平成4)
女子美術学校を卒業後西山翠嶂に師事し、帝展に出品を重ねた。少女を題材とした作品を制作。日本芸術院賞を受賞。戦後母校女子美術大学の学長を務めた。
―東京へ転居する―
「戦争も終り、長女も京都美大を卒業しましたので、主人の勤め先きである東京に住む事になり、母校である女子美をたずねて驚きました。戦争で美術を学ぶ人も少く学校がさびれはてていました。私が絵をかくと云う事が少しは人のためにも役立てばと思う様になり、女子美大の教授として若い人達にかこまれて暮す事になりました。」
(三谷十糸子「野の花にも似て」『現代の目』国立近代美術館1980年)
宮田重雄(みやた しげお)
〔洋画家〕愛知県生まれ 1900〜1971(明治33〜昭和46) 70歳
清水町在住期間 ?〜1950(?〜昭和25)
梅原龍三郎に師事し国画会で活躍。医師でもあり、また、ラジオ番組「二十の扉」でも人気を博した。
―ラジオで人気スターに―
「画家で医学博士の宮田重雄さんの家もこの辺で、ぐるぐる廻ってさんざ探しあてたことがあった。この辺の武蔵野らしい住宅地は、櫟と欅と杉の林がどこまでもつづいたりとぎれたりしながら、春先はいちようにぬかるみ道でやりきれなかった。宮田さんは二十の扉の花形で「動物ですか」「鉱物ですか」とあてながらラジオでたちまち全国を風靡する人気スターになってしまった。私共親子ごく御懇意になってしまったが、三年程前荻窪から一つ先の吉祥寺附近の立派な家に移転されて、昨年は外遊され、まだゆっくりフランスのみやげ話を聞く暇がないが、その内見られる帰朝作品を楽しみにしている。」
(鈴木信太郎『阿蘭陀まんざい』東峰書房1954年)
棟方志功(むなかた しこう)
〔版画家〕青森県生まれ1903〜1975(明治36〜昭和50) 72歳
荻窪在住期間1951〜1975(昭和26〜昭和50)
ゴッホの《ひまわり》に感動し、洋画家を目指して上京した。その後版画に転じ、民芸運動から精神的に大きな影響を受け、宗教的な主題の名作を発表した。ベネチア・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞するなどし「世界のムナカタ」と呼ばれた。荻窪には昭和26年、鈴木信太郎の転居後のアトリエに富山県から移り住んだ。
―富山から荻窪への転居―
「いまのわたくしの家の向う側、今の地下鉄の荻窪駅の真前に、「いづみ」工芸店があります。店主の山口泉氏は、長いことわたくしの仕事を見てくださっている方でもありました。(中略)このときも、川勝堅一氏、田村泰次郎氏と、大勢集まった席上で、「棟方君をいつまでも富山におかないで、このさい東京へ呼ぼうじゃないか、棟方君が東京へ出てくるように尽力しようじゃないか」という発言をして、とうとう決議をとって、その場で奉賀帖面を作ってまわして下さったそうです。この趣旨に賛成して寄せられたご好意の額は、かなりの額にのぼりました。このご好意のこもったお金を頭にしてただ今の荻窪四丁目五十七番地の家へはいることになったのです。」
(棟方志功『板極道』中央公論新社1976年)
―尻上がりで縁起のいい番地の家―
「私の荻窪の家は版画家の棟方志功さんが入った。まだ支那事変の始まった頃だったが、四ノ五七という番地が尻上がりで縁起がいいから売れと言って攻められた。度々あの棟方式の太文字のハガキが来た。電話番号とはちがって家を見ないで住所の番地だけが気に入りで家を売買するのはあまり聞いたことがなかった。」
(鈴木信太郎『阿蘭陀まんざい』東峰書房1954年)
吉井淳二(よしい じゅんじ)
明治37年〜平成16年(1904〜2004)画家
鹿児島県生まれ。川端画学校で学び東京美術学校を卒業し、二科会を舞台に作品を発表した。写実をもとにして庶民の群像を描いた独自の境地の具象画が特徴。二科会理事長。文化勲章受章。鹿児島県南さつま市に吉井淳二美術館。