連続美術講座 画家たちの荻窪
2016年7月9日(土) 恩地孝四郎
日本で最初に抽象を始めた恩地孝四郎。その版画作品は、みずみずしい詩情にあふれている。今年東京国立近代美術館で開かれた「恩地孝四郎展」を担当した講師がこの芸術家の魅力を解説する。
講師
松本透
東京国立近代美術館
松本 透さんの略歴
1955年東京生まれ。1980年京都大学文学研究科大学院修士課程修了、同年より東京国立近代美術館に勤務、2008-16年副館長、2016年4月より特任研究員。専門は日本および西洋の近現代美術。
東京国立近代美術館で担当した展覧会として「現代美術における写真」展(1985)、カンディンスキー展(1987)、「色彩とモノクローム」展(1989)、セバスチャン・サルガド展(1992)、村岡三郎展(1997)、ヴォルフガング・ライプ展(2003)、草間弥生展(2004)、「アジアのキュビスム」展(2005)、河口龍夫展(2009)、恩地孝四郎展(2016年)など。
編著書に『日本近現代美術史事典』(2007年)、訳著書にS.リングボム『カンディンスキー-抽象絵画と神秘思想』(1995年)など。
松本透さんの話(要旨)
恩地孝四郎は日本の近代木版画の推進者であり、リーダーであった。1891年に東京淀橋町に生まれ、1919年中野に転居、1932年に杉並区東荻町に移った。戦災に遭わず、作品がほとんど失われずに済んだのは幸運だった。
幼少時は父が北白川宮能久親王(きたしらかわのみやよしひさしんのう)の家令を勤めた関係で東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)、朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこおう)を自宅に預かり、身近に接した。
1910年、東京美術学校予備科に入学したが本科には進学せず、1915年に退学した。この背景には竹久夢二との交流があった。夢二の作品に強く心を揺すぶられ手紙を出したことから交流が始まり、これが縁で生涯で最初の本の装幀を手掛けた。展覧会以外に作品発表の手だてがあることを知ったのは、夢二を通じてである。
1914年、東京美術学校の友人と私家版(しかばん)『月映(つくはえ)』を6号までまとめた。いわば出版準備号でわずかに三部を制作し、各人が一部ずつ持った。同年、公刊『月映』を洛陽堂から200部出版し、翌年までに7号を出した。洛陽堂は『白樺』の出版元でセザンヌ、ムンクなどの西洋美術を本格的に日本に紹介した出版社だ。公刊『月映』は機械刷りだったが、創作版画は発表の機会に制約があり、機械刷りはいい意味での妥協だった。
版画家はどうやって作品発表の場を確保したか、版画家の社会的基盤はどう作られていったか。1918年日本創作版画協会が作られ、年一回の展覧会が開かれ版画家たちに発表の場が開かれた。1927年帝展に版画の応募が出来るようになり、1931年に日本版画協会が出来た。戦後は一気に発表の場が広がった。版画専門の画廊も出来た。恩地作品はほとんどが1部または数部しか刷られておらず、しかも主要作品が海外にあり本格的な展覧会開催の難しい作家だ。
(以降、画像を見ながら解説)
「抒情『あかるい時』」(1915年)は日本で最初の純粋抽象と言われている作品だ。ベルギーの詩人ベルハーレンの詩集『あかるい時』を読んだ時の感動から制作したようである。手刷りと機械刷りの二つの作品が残されている。この作品は2つの版木で刷られている。心の映像を表現するためには、2種類の赤色の版が必要だった。しかもキラ刷りという浮世絵の技法が使われている。ここに西洋の最新の絵画思想と伝統的な技法を共に取り入れていく恩地の間口の広さがある。
「抒情『いとなみ祝福せらる』」(1915年)。鋭角三角形、弧、直線で出来ている。欧米人にこれを見せると、わずか数年の時差で、日本でも抽象が現れていることに驚く。それが可能であった理由は第1に恩地の才能にあるが、加えて恩地は装幀の仕事で日常的に定規、コンパス、烏口に習熟していたことがあげられる。道具を使えば別の思考が生まれる。
恩地の芸術観を示す言葉がある。大正時代は第一次世界大戦が終わり「人道主義」が時代のキーワードとなった。1918年、恩地は『幸福』という版画集の出版を計画し頒布組織を作った。この時「生命から強く湧き出たものは人の心を打つ。・・・万人の芸術を求めよ。万人が芸術を求めよ」と述べ、芸術による人類の救済を唱えた。しかしこの考えを打ち砕いたのが関東大震災だった。震災後の一時期、版画から離れていた。
1927〜28年楽譜の装幀を手がけた。多くは山田耕筰の曲で、必ず原曲を聴いて心に浮かんだイメージをヴィジュアルなものに翻訳するという作業だった。「抒情」シリーズは恩地の生涯のライフワークであった。『月映』のころの恩地の「抒情」は「深層心理」「意識」に近い意味を帯びていた。しかしこの後このシリーズを続けられず、10年以上の中断を経て、音楽を聴いた印象を版画にするという過程で抒情シリーズが再び現れてくる。さらに戦後新たに抒情(リリック)シリーズが始まる。
「音楽作品による抒情 ドビュッシー『金色の魚』」(1936年)。ドビュッシーの曲からの創作である。ドビュッシーはこの曲を漆器の金色の金魚の絵を見て着想したと言われるが、ドビュッシーはヴィジュアルなものを音に変換し、恩地は音をヴィジュアルなものに変換したと言える。
「萩原朔太郎像」(1943年)。恩地刷り、関野準一郎(恩地の高弟)刷り、平井孝一(専門の刷り師)による刷りなどが残されている。恩地は、概して刷りの技術的な精度や良し悪しには無頓着だ。
戦後、進駐軍の関係者の中に非常に熱心な版画の収集家がいた。これらの人々が直接恩地のアトリエを訪れ、多くの作品を購入した。
「リリックNo6 孤独」(1946年)。恩地は戦後自らの仕事を整理し、リリック、ポエム、カリカチュールなどのシリーズを制作した。これはリリックシリーズの一つ。版木を彫るだけでなく、実物のひもに絵の具をつけて刷る試みを行っている。右手の線はシュロの樹皮を使った可能性がある。言葉にできないわだかまりや心配事がとぐろを巻いているような印象がある。
(会場からの質問 恩地が荻窪に来た事情や、近くに住む画家たちとの影響のし合いについて)私は、そういった事情に詳しくない。私は作品を通して恩地を研究している。ただ一般的に言って、芸術家同士の情報網にはすごいものがある。
(恩地のタイポグラフィについて)恩地は、装幀の際の文字を基本的にはすべて自作し、一つたりとも同じ文字がない。恩地の膨大な量の装幀の仕事については、版画とは別に研究を深める必要がある。