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2016年12月10日(土) 神津港人(こうづこうじん)

東京美術学校を優秀な成績で卒業し、英国名門美術学校に留学した。「構造社」絵画部主任をつとめ、確かな描写力で光あふれる作品を数多く残した。在野を貫いた気骨の画家の生涯を語る。

 

講師

米津福祐(よねづふくすけ)

「長野県美術全集 神津港人」に評伝を執筆・「二紀会」参与

米津福祐さんの話

 

 神津港人は明治22年長野県佐久市の志賀村で生まれた。父親は教育熱心で一族からは優秀な人材が多数輩出している。幼少時は聡明、英知に富み、いい顔立ちをしていたと多くの人が語っている。野沢中学校在学中に丸山晩霞に師事し、東京美術学校西洋画科に入学、黒田清輝、和田英作、藤島武二らの教えを受けた。卒業後は文展に出品を続け、大正9年、31歳で農商務省の官費留学生としてイギリスの名門ロイヤルアカデミーに入学、ラファエル前派の影響を受けたと思われる。2年間の欧州各地の歴訪を終え、帰国後は帝展に出品し、大正13年35歳で荻窪に一家を構えた。

 昭和3年39歳の時、帝展に反旗を翻した斎藤素巌に誘われて構造社に加盟し、絵画部主任となる。親友からの誘いとはいえあっさりと帝展を捨てたが、これは後から考えるともったいない事をしたと思う。後に斎藤素巌は文展に復帰するが、神津港人は文展に戻る事はなかった。昭和7年ロサンゼルスオリンピックの芸術競技の役員として渡米した。しかし特派員記者の電報が国内の誤解を招き、日本中が大騒ぎになる混乱に巻き込まれた。こういうところで人生の道が少しずれていったように思う。

 作品を紹介します。『凩(こがらし)』1922年、人間の肉体を通して「凩」を表現するという擬人化の技法を使っている。『にはのやすみ』も同じで、蚕が繭となる直前に体が透明になるその一瞬を人間の肉体を通して表現する。それだけ描写力に自信があった。戦後は画風が変わり、物語的な要素は消え、印象派風の穏やかな雰囲気を持つようになった。いくつかの裸婦像は実にうまい。彼の画業の到達点を示している。これだけの技量を持ちながら世俗的な名声から離れていたのは、正義を貫くという信州人的な気性が影響したのかと思う。

神津港人のオリンピック騒動

(2018年8月11日  レポート 新倉毅)

・昭和7年6月中旬、九州の福岡で個展を催していた港人に、一通の電報が届いた。第10回ロサンゼルスオリンピック大会の芸術競技に日本代表として行って貰いたい、というような文意のものであったという。

・生来お祭り好きな港人は、この芸術競技役員を引き受けることとし、(中略)6月30日横浜を太陽丸で出帆した。

・船中で運動選手から、「早く絵を描き上げた者が勝ちですか」などと質問されて、なんと説明してよいか困ったくらいであったという。

・「芸術競技とは、かつて近代オリンピックで採用されていたオリンピック競技の一つ。種目は絵画、彫刻、文学、建築、音楽があり、スポーツを題材にした芸術作品を制作し採点により順位を争うものであった。」「日本人選手は第10回ロサンゼルス大会と第11回ベルリン大会に参加している。」(Wikipedia)

・オリンピック村に腰を落ち着ける間もなく、翌朝早速美術館を訪れると、送り出されていた作品はすでに荷ほどきされ、全作品が会場に陳列飾りつけを終わっていた。

・8月2日芸術競技の審査結果が発表され、日本の公募作品中、1点が褒賞(4等に相当)に入賞した。

・これを誤って「入選1点」と報道した新聞があったらしく、そのため、審査対象外の招待賛助作品の作家の中には、金山平三、南薫造、平井楳仙、小杉未醒、池部釣、恩地孝四郎、棟方志功、北村西望、日名子実三等、そうそうたる方々がおられたが、これらの作品まで落選で展覧会に陳列されなかったものと、美術界にひどい勘違いをされてしまった。

・9月3日帰国した港人は、早速に美術界に対して事情の説明にほんろうされることになった。その上、渡米中、構造社に内紛が生じており、(中略)絵画部主任であった港人は、その対応、収拾に席の暖まる暇もなくなる。

                (以上 神津さんから資料をいただきました)

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​荻窪風景(善福寺川)1946年 

​アメリカ風景 1932年

​(ロサンゼルスオリンピックの際暇を見つけて描いた)

​1937年6月30日横浜港からオリンピック代表団の出帆を報じる新聞

著名な招待作家(審査対象外で全員陳列された)までが「落選」と報じられたため「日本美術の尊厳を冒瀆する」と「失敗を問題化」する記事(1932年8月30日都新聞)

​構造社代表・斉藤素巌の突然の退会により「構造社解散」を報じる新聞記事(1932年9月5日)

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