連続美術講座 画家たちの荻窪
2017年1月14日(土)鈴木信太郎
童心あふれる画風に愛好者が多い。洋菓子屋さんのフランス人形の絵は区民におなじみ。1930年に越してきた頃、荻窪はうっそうとした森に囲まれていたという。画家の生涯と絵の魅力を解説する。
講師
湯口和貴さん
大塚保子さん
湯口さんは長く鈴木信太郎の事務方を勤め、作品の管理等にあたっておられた方です。大塚さんはそごう美術館で学芸員を勤めておられる方です。お二人で鈴木信太郎の思い出や、エピソード、絵の魅力などについて話していただきます。
大塚保子さんの話
(鈴木信太郎のマネージャーを勤めていた湯口和貴さんは体調不良でお休みでしたが、大塚保子さんがそごう美術館所蔵の作品画像をたくさん紹介して下さり、鈴木信太郎の世界をたっぷりと味わった一時間半でした。そのうちから3点の作品解説を紹介します)
《松のある村道》 鈴木信太郎は白山神社の境内と言ってもいいようなところに20年間住んだ。雑木林が多く、荻窪駅前から田園風景が広がっていた。至る所にスケッチの材料があった。当時の荻窪には多くの画家が住み、信太郎は津田青楓の家を探してやり、津田青楓は信太郎の家の表札を書いた。信太郎は田村泰次郎の表札を書くなど文人仲間の交流が盛んだった。
《草上の桃》 奈良公園を描いた。樹木の緑、芝生の緑、椅子。静物画と風景画の中間的な画題で、草の香と桃のにおいが漂ってくるような、親しみの感情が伝わってくる絵だ。目線が低いのは足が不自由だったことと関係している。一般に風景を描くとき空を含む構図を考えるが、信太郎の場合視線が低めに作られている。
《東京の空(数寄屋橋附近)》 色彩画家(コロリスト)である信太郎にしては珍しく、色が抑えられている。関東大震災で壊滅した東京は1930年、帝都復興祭を開催しめまぐるしく変化した。アドバルーンは当時の広告媒体として有効だった。風船の下には「それでも彼らは行く」と映画のタイトルが書かれている。数寄屋橋の朝日新聞の社屋の4階から眺めた景色を写生した。アドバルーンが上がってきた時の興奮がその巨大さに現れている。色は黄味がかったベージュで、丹念に色が重ねられ、非日常的な印象を与えている。