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2016年9月10日(土) 田河水泡(たがわすいほう)

荻窪に来たのは1933年、連載漫画「のらくろ」シリーズが人気急上昇中の頃で、ファンや漫画家志望者が次々と家を訪れた。気さくな人柄で区民に親しまれた田河水泡のエピソードを、弟子が語る。

 

講師

山根青鬼 漫画家・田河水泡の弟子

山根青鬼さんのプロフィール

昭和10年、東京赤坂に双生児の兄「忠」として生まれる。昭和24年、中学2年生のときに弟・孝との合作で「北日坊や」(『北日本少年新聞』)で漫画家デビュー。翌年、田河水泡から青鬼のペンネームを名付けられ、弟の赤鬼とともに門下生となる。昭和27年に一家で上京。プロの漫画家となり、子ども向けの本の挿し絵やギャグ漫画などで活躍。平成元年に、永田竹丸・山根赤鬼(平成15年に逝去)とともに師・田河水泡より「のらくろ」の執筆権を継承。平成22年、第39回

日本漫画家協会特別賞を受賞。

江東区森下文化センター(田河水泡・のらくろ館)で「山根青鬼一門会〜のらくろのいる風景2016〜を開催しています。8月13日(土)〜31日(水)(8月15日休館)1階展示ロビー 入館無料

 

山根青鬼さんの話(要旨)

 

  私が田河水泡先生の弟子になったいきさつからお話しします。私は双子の兄、忠として弟の孝とともに東京・赤坂で昭和10年に生まれました。昭和11年、二二六事件後大阪に転居し、やがて大阪は空襲が激しくなり、母の実家のある富山へ昭和20年3月に疎開しました。10歳でした。富山は空襲もなく食べ物も豊富で天国のような所でした。大阪でも漫画は描いていましたが、富山でも母がどこからか紙などを手に入れてくれて自由に描いていました。小学校、中学校の学校新聞にガリ版で漫画を載せたところそれが人気を集め、「天才の双子漫画家がいる」と県でも評判となり昭和24年北日本少年新聞に連載を始めることになりました。そのうち、東京の漫画家に見てもらおうと家の光協会のひとが言ってくれて、田河水泡さんに連絡したところ、それはいいということで会いにきてくれることになりました。私たちが緊張して富山県の泊という小さな駅で待っていると列車から田河先生が降りてきました。「あ、のらくろだ」と思いました。私たちの頭をなでてくれて「小さいね」と言いました。駅前の旅館で、自分たちが書き溜めた絵を見てもらいました。先生は黙ってそれを見た後、「君たちは何でも描けるかい?」と尋ねられ「はい、何でも描けます」と答えると「馬鹿もん!私でも描けないものがある!うぬぼれるな」と言われました。これが先生に怒られた最初で最後のことでした。その後、両親に「有望だから学校を卒業したら東京につれていらっしゃい」と言ってくれました。

  そこで一家をあげて東京に出ることになりました。昭和27年、最初は武蔵小金井の農家の納屋の二階を借り、四コマ漫画を週に10枚、二人で20枚を持って東荻町の先生のお宅に伺いました。毎週行きました。先生はそれを黙って見て、いいとも悪いとも言わずに引き出しにしまいます。それを三年間続けました。それはつらかった。先生が富山から引っ張りだして漫画家にすると言ったのは嘘ではないかと思いました。親父は職を捨てて上京し、おふくろが刺繍で稼いでいました。私たちは貸本漫画を書いて食いつないでいました。そして三年経ったある日、先生は押し入れからふろしき包みを取り出して「ここに三年分の四コマ漫画がある。これは全部面白かったよ。三年間我慢できればもう大丈夫。どんな困難も乗り越えられる。君たちの忍耐力を試したのだ」とおっしゃいました。三年間はつらかったけどとても有難いことでした。それからはあちこちに紹介してくれて原稿料が入るようになりました。親父、おふくろも喜んでやはりうちの息子は天才だなどと言っていました。

  先生の弟子は杉浦茂、倉金章介、長谷川町子、滝田ゆう、森安なおや、ツヅキ敏、山根青鬼・山根赤鬼、永田竹丸などたくさんいますが、「お前はだめだ、漫画家にはなれないよ」とはっきり言われた人も多い。私は運がよかったと思います。

(以下箇条書き)

  • 漫画家になるなら見聞を広めよと言われたこと

  • 個性を出せ、作品を見たらすぐ漫画家の名前が浮かぶくらいということ

  • 歌舞伎町に飲みに連れて行ってもらった時、のろくろという店があったこと

  • 70を過ぎて運転免許を取って小金井の家にきたこと

  • 碓井峠を運転したこと、事故を起こしたこと

  • 野沢温泉の住吉屋を定宿にしていたこと

  • 青鬼、赤鬼というペンネームの由来(アザの色と日本童話の鬼)

  • パリでの奇遇

  • 滝田ゆうさんのこと、長谷川町子さんのこと

  • お隣の恩地孝四郎さんのこと

  • 手塚治虫さんの通夜で、のらくろを継ぐ話をしたこと

  • 亡くなる一週間ほど前に病室でビールを飲んだこと

                         (新倉まとめ)

 

 

『長く生きてみて分かったこと』(高見沢潤子 大和書房)より田河水泡の荻窪時代関連記述の抜粋

 

  • その間にぼつぼつ杉浦も倉金も仕事にありつくようになり、田河もどうしても庭のある家に住みたいというので、当時は未だ郊外だった今の荻窪まで倉金を連れて、家を探しに行った。帰ってきて、田河より先に私の部屋に飛び込んできたのは倉金だった。「奥さん、奥さん。とてもいい家が見つかりましたよ。新しい建て売りの家、南側と東側に広い庭があってぐるりは原っぱで空いているし、静かないいところですよ」今は荻窪もぎっしりと詰まった住宅地になってしまったが、そのころはまだ空き地があちこちにあって、家もまばらであった。(p154)

  • (長谷川)町子の母は、町子をおいて帰るとき、私たちに言った。「町子をどうぞよろしくお願いいたします。私ども博多におりますときからずっと教会に行っていまして、町子も子供のときから教会生活を続けておりますので、日曜日には近くの教会に行かせて下さいませんでしょうか」荻窪の家の南側は広い空き地であったが、空き地の北側の一番奥の角に、私たちの家にくっついて小さな教会があって、賛美歌が聞こえたりしていた。私たちが引っ越して来た前からあったので、私たちは挨拶に行った。小さい教会の奥にまた小さい牧師館があって、私たちはすぐ牧師夫妻と仲良くなった。当時はまだ電話のある家が少なかったので、家の電話を貸してあげたり、取り次いであげたりしたので、家の一番北側の角の垣根を壊して自由に出入りできるようにしていた。そのことを母親に話し、私が一緒に教会に行って町子を紹介するからと約束した。(p162)

  • 『のらくろ』は俗悪ではないとがんばって『少年倶楽部』の編集部は昭和16年、戦争が始まった10月10日まで続いた。印刷用紙が不足したので、売れ行きが落ちると配給の紙を減らされる。ところが、『少年倶楽部』の発行部数は一向減らなかった。それは『のらくろ』が載っているからだとわかって、田河は軍の情報部から呼び出された。「あんたの『のろくろ』をやめてほしいんだ。やめれば『少年倶楽部』の部数が落ちる。用紙の節約にもなる。商業主義なんかに協力しないで、この非常時には国策に協力すべきだ。そのためには『のらくろ』をやめることだ」(p176)

  • 執筆禁止の前の年、私たちはそれまで住んでいた荻窪の家の裏の高台に土地を買って、新築の家を建てた。隣りは当時版画で有名な恩地孝四郎の家で、最初の帝国ホテルを建てたフランク・ロイド・ライトの弟子で遠藤新(あらた)という建築家が設計した、チョコレート色のしゃれた建物であった。田河は荻窪にいる間に恩地孝四郎とすっかり仲良くなったので、彼の紹介で遠藤新に頼み、同じように設計してもらい、同じような色の建築にした。間もなく戦争が始まり、物資欠乏、空襲、昭和20年には荻窪にも爆弾が落ち、かなり離れた人家で死者が出たりして、恩地家の隣りの林の中にも爆弾が落ちた。(p179)

  • 田河は恩地孝四郎の隣りに来て、エッチングをやる駒井哲郎や関野準一郎ららとも友達になり、本格的にエッチングの指導を受けた。そのおかげで東京ビエンナーレで田河のエッチング作品が入選し、画家として認められ、一線美術会の委員に推挙され、毎年エッチング作品を展覧会に出品するようになった。(p185)

 

 

近所のKさんのお話

「それから、のらくろで有名な田河水泡先生も近くにお住まいでした。このような話もありました。のらくろさんの前の道が暗かったので、お宅に門灯がついていたそうですが、その丸い門灯に、小さなおたまじゃくしの絵が描いてありまして、だんだんにちょっと足が出たり、しっぽが取れたり……。最後にかえるになるのを、通る人たちがみんな楽しみにしていたということです。」

​講座風景 青鬼さん直筆の「のらくろ」

​青鬼さんの色紙を受講者にプレゼント

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